禅を学んで、憂鬱は消えるか。
毎日の憂鬱がとまらなくて、これを止めるには『禅』なんじゃなかろうか、と思い立って、鈴木大拙先生の『禅学入門』を読んでみた。
読んでみた、って書いたけど、実は半分くらいで挫折してしまった。
そもそも序章で、
「禅にあっては個人的経験をもって一切とする」
「ただ人の奥深い心の底において経験される時はじめて理解されるものであるからである」
なんてことが書いてあって、え〜〜そんな〜〜というような気分になってしまった。
本って、言葉で論理的に説明するものだと思ってるんだけれど、「禅にあっては個人的経験をもって一切とする」なんて書かれてしまうと、本で理解するのは無理ということになってしまう。
論理的に理解するということではなく、経験によって理解するっていうのは、体験するということとは違うと思う。
言葉にできないけど、いつか勉強しているうちに、こういうものだと腑に落ちる時がくるってことなんだろうか。
だんだん頭が混乱してきた。
P71ページにこんな文章がある。
首山省念(禅の先生)がある時弟子の集まりに向かって竹篦(しっぺい)を示して言った、
「お前たちがこれを竹篦というなら、それは肯定だ。もしまたそうでないと言うなら、それは否定だ。だが肯定もせず、否定もせずに、さてこれを何と言うか。さあ言って見よ」。
竹篦というのは、禅宗で、先生が参戦者を指導するため打つのに使う竹の棒のこと。
私なりにこれを解釈すると、竹篦という名前を竹篦につけたのは人間(日本人)であって、竹篦にとってはそれは関係ない話なんであって、竹篦は竹篦という名前がなくても、竹篦であるし、竹篦という名前じゃなく、ペリーさんという名前であっても、竹篦には変わりない。
というふうに解釈した。
つまりは私という人間も、Aという名前がついていようが、Bという名前がついていようが、私は私。
と、こういうふうに解釈したけど、合っているのかわからない。
そして、たぶんこんな浅いものでもなくて、もっといろんな解釈があるだろうから、そこらへんはちょっとずつ勉強していくしかない。
しかしこれ、禅を勉強して、憂鬱の軽減に役立つんだろうか。
憂鬱の原因が、自分の生活の行き詰まり感にあるんだと思っていて、それをあるがままに認めていければ、もう少し気楽になれると思っている。
多分、私が憂鬱に陥ってしまっているのは、状況を改善させたいと思っているけど、改善の可能性がなく、改善させる能力もないのに、より良い状況にいる他人と自分とを比べてしまっているところにあるという気がしている。
一番身近な存在だと、夫になるんだが、夫は仕事が割と好きなタイプで、仕事の勉強がそんなに苦じゃなさそう。
そんでもって、会社の待遇も私とは雲泥の差なんである。
一方で、私はというと、仕事のことを考えると苦痛しかないタイプ。
苦痛しかない上に、待遇も、夫とは天と地ほどの差があるんだなぁ。
夫から仕事の話を聞くたびに、私は自分の仕事と比較してしまって、自分の仕事がしょうもないものだと感じてしまう。
そして、そういう仕事にしかつけない自分がどんどん嫌いになっていく。
なので、今の私がなすべきは、今の自分を認めてあげるということなんではないか。
そして、それを体得(?)するには、禅がいいのではないか、とこうなったわけ。
もしかしたら、禅ではなく、仏教とかなのかもしれないけど。
たぶん。
まぁなんにせよ、中身を理解しないことには、自分が求めているものなのか、そうじゃないのかもわからないので、ある程度理解できるまでは、取っ掛かりになりそうな本でも読むしかないな。
夫に、「宗教の勉強をしている」と言ったら、安倍総理の事件のこともあって、深刻に心配された。
こういうとき、日本では、宗教=やばいもの、という認識が根強いなぁと思う。
実際、良くない宗教もたくさんあるんだろうけど、本来は人間の精神を救うものが宗教だと思っているので、食わず嫌いになっている日本の状況はどうなんだろう。
私は常識とか、社会通念に囚われすぎているのかもしれない。
日本一有名な元ニートのPhaさんが絶賛していて、気になって読んでみた本。
ストーリーは、絵描きの主人公がいろんな男の人とセックスしたりしなかったりする話。
Phaさんも書かれていたように、文章はかなりカジュアル。
どちらかというとねっとりじっとりした文章のほうが好きなので、文章は好みではなかったのだけど、頭にすっと入ってくる読みやすさが良かった。
ここ最近文字数が多い本が続いていたので、紙面の文字の少なさにホッとしたところもある(笑)
主人公がセックスする男性の中のひとりに『痴漢』氏がいるのだけど、この痴漢氏と主人公の会話でこんなのがあった。
「こないだ、女の子から電話があってね。『彼氏と別れたからまた会ってください』って言うんだよ」
「そうですか」
相手が痴漢だけに、嫉妬なんて起きないのだな、と私は思う。
「なんで、彼氏ができると会わなくなるのかな」彼は拘っている。
「一応義理立てするからかな?」
「じゃあ、なんて彼氏と別れると戻ってくるんだよ。それこそ俺に対する義理欠いてるぞ」
だけど彼は友だちではない、義理なんてない、彼は卑劣漢なのだ、
〜略〜
その子だって痴漢に触られる方が気持ちいいのだろう、でもそこを基準に考えるわけにはいかない。基準を付き合った男に合わせると痴漢には会えなくなってしまう、別れた後はそれに捕らわれる必要はないから戻ってくるのだと私は言った。でもその基準ってなんだろう、自分で言った言葉がひっかかる。
『イッツ・オンリー・トーク』より
ここのくだりがすごく心に残った。
現代日本では、基本的に付き合っている人と『だけしか』セックスはできない。
付き合っている人以外とセックスすると、浮気ってことになって、白い目でみられることになる。
だから付き合っている人以外とセックスしたいなら、まずは別れてからじゃないといけない。
でもこれって、誰が考えたんだろう?
そもそも付き合うことと、セックスを別に考えるのはいけないのか?
恋人だけどセックスはしない、という関係があってもいいと思うし、
恋人ではないけどセックスはする、という関係があってもいいかもしれない。
(これって、いわゆるセフレということになってしまうか・・・汗)
なんでこの文章がこんなに印象に残ったのかというと、私自身、性欲が少ないからかもしれない。
割と最近まで、私に限らず女の人って、そんなに性欲がないものだと思っていたのだけど、いろんな人のブログを読んでいたらそうでもないということに気づいたんだった。
女の人でも性欲が強い人もいれば、私みたいにあんまり強くない人もいて、それは人それぞれ。
私みたいに性欲が強くない人は、セックスなしのお付き合いでも全然問題ない。
かといって、例えば、夫が誰かとセックスしたとして、自分がどう思うかと想像すると、多分、いやかなり嫌な気分になる。
だけど、これって、小さい頃から植え付けられた感情じゃなかろうか。
少女漫画や、恋愛小説や、その他恋愛ドラマなどで、「他の人とセックスすること=悪」と植え付けられて育ってきてる。
良くも悪くも。
そういうのが自分の感情にも影響してないと言い切れるのか。
わからん。
夫が会社の同僚(女)と食事をしに行くことは、別に全然問題ない。
夫が会社の同僚(女)とセックスしたら、問題だ。
この線引は、どうやって決まったのか。
そもそも、恋愛感情とセックスとを切り離して考えてもいいんじゃないか??
恋愛感情って、もっと複雑というか、多様なものであってもいいはずで、恋愛の対象だけどセックスは別とか、もっといろいろあってもいい気がする。
まぁ、セックスの延長線上に子どもの問題があるから、むずかしいところだな。
もし子供ができてしまった場合、どうするんだとか、いろいろ不都合がでてくる。
100%確実な避妊法ができないと、ちょっとむずかしい問題かもしれない。
いつものように、答えは出ない。
Phaさんのブログ
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海外の間取りは、日本と全然違う。
絶賛、インテリアまつり中の夫が借りてきた本。
なんとなくパラパラ見てたら、日本と海外とでは、間取りの作りがかなり違うんだなぁと。
文化が違うんだから、当たり前なんだが。
一番印象的だったのは、
海外では、玄関→リビング
日本では、玄関→廊下→リビング
というところ。
日本だったら、玄関を開けると、まず廊下に繋がっていることが多いと思うけど、海外では玄関を開けたらリビングに直結している間取りが多い。
夏や冬など、冷暖房を使う季節だと、玄関を開けるたびに熱気(冷気)がリビングに入り込んできてしまうので、断熱的にどうなんだろう。
また、お客さんが来たときに、玄関を開けただけで、リビングが丸見えになってしまうので、常に家をきれいにしておかないといけない。
ある意味で、家をきれいにキープする動機になって、いいかもしれない。
あと、思った以上に間仕切りがない印象だった。
日本の木造一戸建てとかだと、どうしても耐震壁を作らないといけないので、だだっ広いワンルームを作るのは技術的(法律的)に難しいのだけど、地震がない国なんかだと、構造体が少なくて済むという理由もあるのかもしれない。
間仕切りも思った以上に少なかったし、廊下も少なかった。
というより、ほとんど無い。リビングから各個室にアクセスするような間取りになっていて、リビングが廊下みたいな感じだったな。
スペースの無駄が省けるし、面積が小さい家こそリビング→個室アクセスタイプは良さそうだ。
そして、とにかく広い。
広い!!!
なんでかなーと思ってよく見ると、収納スペースが少ないような気がする。
ドラマの間取りだし、リッチな設定が多いということも影響しているとは思うけど。
クローゼット的なものがあんまりないのはなんでだろう。
欧米人は日本人に比べて、持っている物の量が少ないという話を聞いたことがあるけど、それにしても、洋服なんかはどうやって収納しているんだろう?
日本で今流行のミニマリスト的な精神が海外では昔からあったんだろうか??
こういう本が出版される背景には、海外のインテリアがかっこいい!という意識があるんだろうけど、日本人の海外コンプレックスっていまだに根強いんだなぁと思ってしまうな。
私も一時期、欧米かっこいい!と無条件に思っていたので、全く他人事ではないんだが、このコンプレックスの原因はどこにあるんだろう。
建築一つとっても、海外の教会建築の圧倒的なスケール・デザインと比べてしまうと、日本の木造建築(城や寺社仏閣など)はどうしても地味に見えてしまうのは、私だけかな??
日光東照宮はかなり派手ではあるんだけど、あれは成金趣味のように見えて全然好みじゃないんだよなぁ。
かたやヨーロッパのゴシック建築(ネオゴシックも同様)なんかは、ゴテゴテなのにかっこよく見えるから不思議だ。
ヨーロッパの建築をかっこいい!と思う気持ちはよく分かるので、明治や昭和の役人たちがヨーロッパに留学して、コンプレックスを抱いてしまったのはもうどうしようもない。
そして、明治・昭和期に植え付けられた海外コンプレックスが、未だに尾を引いている気がする。
デザイン性もとい芸術性という点では、歴史が違いすぎるし、文化度がヨーロッパと日本とでは差が圧倒的すぎるので、比べてもしょうがないんだけども。
どうしようもないのだけど、もう少し自国の文化を愛でてもいいかもしれないなぁと思う。
万が一、自分で家を造るということになったら、日本に昔からある障子や引き戸、縁側などの可能性を考えてみたい。
特に障子なんかは、いくらでも進化させる余地があると思うし、ちょっとデザインを現代風にアレンジすれば、かなり格好良くなると思うんだけどなぁ。
最近読んで良かったと思った本(2022年6月)
2022年6月に読んだ本
存在しない女たち 男性優位の世界にひそむ見せかけのファクトを暴く キャロライン・クリアド=ペレス
多様性の科学 画一的で凋落する組織、複数の視点で問題を解決する組織マシュー・サイド
「育ちがいい人」だけが知っていること 諏内えみ
生まれた時からアルデンテ 平野紗季子
そもそもこうだよ住宅設計 増田奏
現代アートとは何か 小崎哲哉
残酷な神が支配する(1) (小学館文庫) 1〜17巻 萩尾望都
王子が私をあきらめない!(1) (ARIAコミックス) 6〜8巻 アサダニッキ
特に面白かった本
これは面白かった!
重い題材なんだけど、ちょっと皮肉った文章が読みやすくしてくれていて、そういう意味でも良かった。
こちらで詳しく記事にしてます。
これもめちゃくちゃ面白かった。
実際の事例を取り上げて、いかに多様性が重要なのかというのを説明してくれている良本。
「CIAが9.11のテロを見逃したのは、多様性が欠けていたからでは?」という仮説を提示されたら、興味が湧いて読んでしまうよなぁ。
こちらで詳しく記事にしています。
図書館の棚をぶらぶら歩いて、目に止まった本。
岡本太郎先生本を読むのは初めて。
正直、文章はそんなに好きじゃなかった。ちょっと固めの文章というか、ゴツゴツした印象の文章。
だけど、地方の芸術に関する着眼点や考察が秀逸で、ページをめくるごとに考えさせられてしまった。
別に記事をまとめたいと思ったんだけど、書いてる時間がなくて断念。
柳宗悦らが主導で行った民藝運動に対する痛烈な批判部分は、ちょっと考えてしまったな。
民芸運動によって、その土地が本来持っていた民衆芸術が失われてしまったという指摘。
芸術というコンプレックスを民衆に抱かせてしまったために、心の底から湧き上がってくる素朴な動機を損なわせてしまった、ということか。
どうしたら芸術に昇華できるか、と意識してしまった時点で、もうそれは芸術ではない何かになってしまっているのかもしれない。
これはめちゃくちゃ面白かった。
文章が良い。好き。
写真も良い。
グルメ本というと、ちょっと違うかな。やっぱりフードエッセイという言葉がぴったりくる。
おいしいだけがすべてじゃないんだ、と思わせてくれる食エッセイだった。
すごくおすすめ。
こちらで詳しく書いてます。
5月に読んだ、『現代アートを殺さないために ソフトな恐怖政治と表現の自由』がめちゃくちゃ面白くて、著者の前作も読んでみた。
こちらは、タイトル通り現代アートとはなにか、というのを掘り下げた内容になっている。
この本を読めば、現代アート展に行っても、「全然わからない(泣)」ということにはならないのでは。
すごく勉強になったな。
日本における現代アートの現状は、そのまま今の日本の現状と重なって見える(悪い意味で)、というあとがきが印象的だった。
最近、ジャンルが違う本なのに、「日本、このままだとマズイよ」ってオチになっている事が多くて、日本、どんだけヤバいんだ・・・と気が滅入ってくる。
初めて読んだ椎名誠さんの本。
気軽に読めるライトエッセイで、堅苦しい本が続いていたので、小休止にぴったりだった。
基本、根が暗いので、こういうポジティブな、プラスのオーラがじゃんじゃん溢れてるエッセイを読むと、気分が上がる気がする。
行ったことない(行こうとも思わないのだけど)国のとんでもグルメが紹介されていて、衝撃だった。
猿の肉とか、ワニのさばき方とか。
椎名誠さんの他の本も読んでみたい。
私が言うまでもなく、名作だ。
あ、これは漫画です。
数年前に読んで、あらためて読み直し。
やっぱりすごい漫画だった。
自分が見ているものは、現実だろうか、非現実だろうか。
人間はみたいものしかみない、みられない。
自分が見ているものは、良かれ悪しかれ、自分によるバイアスがかかっていることを意識しないといけない。
そして、『愛』ってなんだという一貫した問いが、読者に重くのしかかってくる。
うーん。
答えはでない。
漫画。
ライトなラブコメディで、面白い。
王子の可愛さが半端ない。
王子のテンションが上がると、背景にバラが舞うんだが、それが実体となって登場人物たちの目に見えているというのが新鮮だったな。
意外と初めてみた表現な気がする。
まとめ
7月はそんなに冊数を読めなかったな。
その割には、面白い本がたくさんあって、良かった。
最近のピザってちょっと高い。気のせいか。
今日、久々に友達とランチに行った。
その地域では有名なピザ店で、もう何回もお邪魔しているお店。
もちろん絶品であった。
食べながら、ピザの値段について考えていた。
ピザって、構成はほとんどパンと変わらないのに、ランチでも1枚1000円以上する。
今日行ったピザ屋さんは、ランチで1400円(ドリンク付き)
パンなら、ちょっとお高めのを買っても、400円〜500円くらいだと思うので、ピザってちょっと高いよな〜と毎回思う。
まぁパンよりも、整形に時間が掛かりそうだし(なんかクルクルしてるイメージ)、チーズがたくさん載ってるからパンより高くなるのは仕方ないと思いつつ、やっぱりちょっと高いと思う(しつこい)。
1200円とか1300円くらい出すと、お店によってはお肉ランチ・お魚ランチが食べられたりするので、それと比べてしまうと、モヤモヤ〜と思うのは私だけか。
なんだかミミっちい話になってきた。
ピザは大好きなんだけど、高いな〜と思うようになってから、ピザ屋さんから足が遠のいている。
先日読んだ、『おなかがすいたハラペコだ。』(著者:椎名誠)の中に、昔は寿司もすき焼きも庶民の食べ物だったのに、今ではすっかり二極化・高級化している、というようなことが書いてあった。
寿司はクルクルまわる回転寿司(大衆寿司)と、一人前ウン万円の高級寿司に分かれているというような。
すき焼きも、ちょっとした料理店に行ったら、やっぱりウン万円してしまう。
というかもう今は牛肉が高いので、家で食べてもすき焼きは高級料理ってな感じだ。
この流れで、いまはまだ庶民食(ピザやカレー、ラーメンなど)でも、いつかは安いのと高いのとで、二極化する方向に進むのかも知れない。
個人的に、カレーなんかが、まさにその方向に進みつつある気がする。
もう人気店なんかでは、ランチで1000円以上は当たり前になってきているし、お店自体、カレー屋さんとは思えないくらいおしゃれなところもある。
いや、カレー屋さんがおしゃれじゃないといっているわけじゃないんだけど。
「カレー、1人前、1万円です。」
なんて、言われる日が来たりするんだろうか。
そんなことを言われた日には、誕生日でもないのと、食べれませんな。
カレーも具材やらなにやら、こだわろうと思ったら、こだわる余地はいっぱいあるので、高級化していくのも時間の問題かも知れない。
椎名誠さんの本を初めて読んだのだけど、気取らない文章で、すごく読みやすかった。
いろんな国(アマゾンの奥地とか笑)を旅している方で、他では聞けないようなとんでもエピソードが出てきて、めちゃくちゃ面白かったなぁ。
猿の肉を食べたとか、ワニのさばき方とか、一つ一つのエピソードがすごい(笑)
他の本も読んでみよう〜。
頭の中が、“仕事をやめたい”でいっぱい。
もうここ2年くらい、気づくと「仕事やめたい」しか考えてなくて、思考停止してる。
月曜日の朝が、本当にしんどくて、
「また一週間が始まってしまった・・・」
「5日も行かないと休みにならない・・・」
みたいなことを考えながら、通勤電車にのって、重い体を引きずって、ようやっと職場の椅子に座って、仕事を始める。
仕事を始めると、あと何時間我慢すれば家に帰れるのか、って頭の片隅でちらちら考えながら、なんとか仕事する。
ノルマをこなして、ようやっと終業時間になって、
「あと4日。」
「あと4日我慢すれば、休みだ」って思いながらで家に帰って、ご飯作って、寝る。
また朝が来て、
あぁもう朝か・・・
仕事行かなきゃってなって、無心で朝ごはん食べて、通勤電車のって、職場に行く。
これを5回繰り返して、ようやっと土曜日が来るけど、休日の時間の進み方は異常。
なんにもしてないのに、気づいたら、もう日曜日の夜9時。
日曜日の夜9時って、月曜日の朝と気分は同じ。
こんなのを2年くらい(もっとか?)繰り返してて、なんかもう、いま死んでも、50年後に死んでも、私の人生のクオリティーは変わらない気がするって、最近思い始めた。
いつ死んでもいいなぁと思ったら、いろいろどうでも良くなって、最近はメイクも適当で、洋服もどうでも良くなってきて、ご飯も食べられればなんでもいい気がしてきて、手間がかからないことが最優先になってる。
朝になったら、ぽっくり死んでないかな〜と思うけど、毎朝、あいにく生きてて、仕方なく仕事行く。
たまに、夫に、「仕事辞めたいなー、FIREしたいなー」ってつぶやくと、
(夫)「仕事辞めるのもいいけど、FIREするには1億貯めてからだな」
(夫)「仕事を辞める前に、どういう生活がしたいのかを考えて、それに向けて行動していかないとダメだよ」
みたいな、超現実的な回答(返答?)が返ってきて、げんなりする。
たとえば、夫が仕事辞めたいって言ったら、私はものすごい恐怖を感じる。
だから夫も私に仕事を辞められるのが怖いんだろうなーって、夫の気持ちは手にとるようにわかる。
夫の反応にうんざりしつつも、夫の気持ちもわかるから、責められるはずもない。
しかし、ここで一言、
「辞めてもいいよ」って言ってくれたら、救われるんだけどなーって思っちゃうんだよなぁ。
夫がそんなセリフを言うことがないのも、よくわかってるんだけど。
夫の性格はわかっているつもりだけど、「昇進すれば給料も上がるんだし、管理職、目指しなよ」ってのは勘弁してほしい。
こんなに仕事が嫌で嫌でしょうがないのに????
仕事辞めたいって言ってる人間に、よく言えるなーって、思いながら、
「そりゃ無理だねー」って適当に返事する。
私が昇進して、給料が上がれば、家計が楽になるのはわかる。
頭ではわかってるんだけど、夫のセリフの裏にそういう打算が見えて、ますます嫌気がさす。
自分の人生に心底嫌気がさす時があって、どうしようもなくなって、衝動的に、Googleで“死にたくなったら”って検索して、
なんだかわからないけど、厚生労働省の電話相談サイトがトップに表示されて、案内されるまま連絡してみたけど、混み合ってて全然通じない。
生きることに嫌気がさしてる人がこんなにいるのかーと思う。
みんな、疲れてるんだろうか。
私もなんだか疲れてる。
大して仕事をしているわけでもなく、疲れているはずはないのに、なんでこんなに疲れてるんだろ。
私よりも、深夜、いろんな人の悩みを聞いてる相談員さんがたぶんきっと一番疲れてるな。
明日も仕事だ・・・と思いながら、このブログ書いてて、憂鬱がとまらない。
仕事も人間もやめて、ミドリムシとかになりたいなー。
(ミドリムシにめっちゃ失礼!)
食事が現代アート的になっていったら、どうなるのか。「生まれたときからアルデンテ」(著者:平野紗季子)
『生まれた時からアルデンテ』著者:平野紗季子
今や、めちゃくちゃ有名なフードエッセイストの平野紗季子さんの初エッセイ本。
文庫になったのを期に今らさながら読んでみた。
平野さんのエッセイは、兎にも角にも文章が素晴らしくて、たぶん食に興味がなくても、すらすら読めてしまう面白さがある。
若くしてこれほどまでに食に真摯に向き合っていたということに、ひたすら尊敬の念を感じるばかり。
私が大学生の頃なんて、今以上にお金が無かったので、安いことが正義であった(笑)
まぁ、今もそんなに外食はできんのですが(笑)
このエッセイを読みながら、印象に残ったのはP42から始まるシェフの生江史伸さんとの対談部分。
(平野)例えば、現代アートや映画をみるように、作品それぞれに解説があったり、パンフレットがあったりして、コンセプト込みで楽しむ芸術に比べて弱いなって思ったんですよ、料理って。出てきたらとにかくすぐ食べちゃうし(笑)。舌で思想は食べられるのかなって思う。
(生江)特に日本の料理はそうかもしれないですね。
「生まれたときからアルデンテ」(P42−43)より
最近、現代アートの本ばかり読んでいたせいか、現代アートという単語に反応してしまった。
二人の対話を読んで、もし仮に日本のレストランが現代アート的になったら、どうなるのかな、って想像して、ちょっとゾッとしてしまったんである。
「生まれたときからアルデンテ」とほぼ同時期に読んだ「現代アートとは何か」という本で、今の現代アート市場が加熱しているというのを知ったばかりだった。
この本によると、世界の富裕層が現代アートをこぞって買っているらしい。
こうなると需要と供給の問題で、人気作家の作品は法外な値段がつくようになる。
もしこれと同様の現象が、食(もといレストラン)で起こったら???
もう一般市民には到底手が届かない存在になるだろうな、と。
レストランはどんどん隠れ家的・会員制になっていって、一部の富裕層が独占するようになる・・・かも知れない。
ただ現代アートと違うのは、食事は食べたら終わりで、手元に残らない。なので現代アートのように法外な値段はつきにくいような気もする。
しかし今後、シェフが考えたメニューやレシピに対して権利がついて、売買できるようになったら、話は別だ。
と、思ったら、もうすでにそういうサービスがあった!↓↓↓
これはまだ一般向けだけど、こういうサービスが今後どのようになっていくのかが、楽しみでもあり不安でもあるなぁ。
資本主義にのまれない方向で、進化してほしい。
最近、私は節約志向になってしまって、外食もほとんど行かなくなってしまったけれど、それは外食が嫌いということではないんである。
外食はやっぱり楽しいし、たまには行きたい。
しかし、1食10万円とか、そういう次元になってきたら、もう行きたくてもいけなくなってしまう。それは、悲しすぎる。
と、思いつつ、レストランオーナーやシェフにとっては、自分の料理を評価して、お金を落としてくれるお客さんはありがたい存在なはず。
現代アートも、今のように発展したのは、お金を落としてくれる富裕層がいるからという現実もあって、つまりは資本主義の恩恵のなかにあるのが現代アートということらしい。
となると、今以上に食文化が発展するためには、やっぱり富裕層ならぬ資本主義の力が必要なのかもしれない。
富裕層が楽しむ食と、庶民が楽しむ食、それぞれ文化が分かれるというのも食の発展の道としてはアリかもしれないな〜。