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日本にも検閲はあるのかもしれない。「現代アートを殺さないために〜ソフトな恐怖政治と表現の自由〜」(小崎哲哉)

先日、「現代アートを殺さないために」という本を読んだ。

 

現代アートを殺さないために〜ソフトな恐怖政治と表現の自由〜」(著者:小崎哲哉)

 

タイトルだけ見て、「とりあえず現代アートの本っぽい」ということで読んでみたのだけど、現代アートを取り巻く日本(や世界)の状況について書かれている本だった。

かなり綿密なリサーチを元に書かれているようで、何も知らなかった人間としては驚くばかりだった。

 

日本では、建前上は「検閲」は無いということになっている。

というより日本では、憲法21条で、検閲は禁止されている。(以下、抜粋)

第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

憲法上は禁止されているけれど、問題はどこまでが検閲でどこまでが規制なのか、ということ。

どんなことにもルール(規制)は必要。

だから、ルールと検閲をどう線引するのか、っていうのをよくよく考えないといけない。

 

この本を読むまで、私はどこまでが検閲で、どこまでが規制なのかなんて、正直、考えたことすら無かった。

たとえば、R15とか、R18というふうに、年齢制限を設ける(しかし公表はする)のは検閲ではなく、制限・規制の範疇だと思う。

公権力によって、政治的な理由などで表現や公表・展示自体が禁止されるというのが検閲ということになるんだろう。

 

本書の中に、あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」について、記載している部分があって、これはかなり印象的だった。

私は「表現の不自由展・その後」について、あまり詳しくは知らなかったのだけど、当時ひっきりなしにニュースで取り上げられていたのは記憶にある。

従軍慰安婦をモチーフにした(ように見える)「平和の少女像」や昭和天皇の写真を燃やすシーンのある映像作品に批難が集まり、ついには展示会が中止になってしまったという。

 

この展示の良し悪しとか、賛否はともかくとして、

個人的には愛知県知事の、

「国の補助金をもらうんだから国の方針に従うのは当たり前だという人がいるが、税金でやるからこそ、公権力でやるからこそ、表現の自由は保証されなければいけない」

という発言がごもっともだなあ、と思った。

 

当時は名古屋市長や政治家などが、平和の少女像は反日作品だとして、この展示の取りやめを主張したらしい。

しかし、行政サイド・公権サイドにいる人間が、少なくともアートとして展示されているものの取りやめを主張してしまうのはマズい。

 

しかし、ここで次の問題が浮上する。

何をもってアートなのか、という問題。

著者の小崎氏は、

良いアート作品には、既成概念の打破のような大きなコンセプトに、様々な解釈が可能な動機や、別の主題を含んだ小さな仕掛けが重ね合わされている。〜中略〜 知的・概念的な要素と感覚的な要素、特に前者が、層(レイヤー)を成して作品に組み込まれ、大きなテーマと響き合って作品に深みを与える。

 

アーティストが作品に組み込んだレイヤーは、鑑賞者に様々なことを想像、想起、連想させる。想像、想起、連想の結果が作品全体のコンセプト理解に役立つ。デュシャンが言うように、想像的行為はアーティストだけでは果たされない。「鑑賞者が、作品の内なる特質を解読し、解釈することによって作品を外界に接触させ、かくして自らの貢献を創造的行為に加える」。そのために補助線的な役割を果たすものがレイヤーである。レイヤーをいかに構築するかがアーティストの腕の見せ所であり、その巧拙が作品の質を左右する。一般的に、良い作品はレイヤーが多く、深く、すなわち豊かである。豊かなレイヤーは、作品そのものを豊かにする。(P96-P97より)

 

この点でいうと、不自由展の作品は、アートではあるけれど、レイヤーが少なく「良い作品」とは言えないものが多かったらしい。

だから、政治的なコンセプトが前面に出てしまい、現代アートの見方を知らない人たちの批判を浴びることになってしまったのではないか、と。

うーむ。

これと同じようなことが、先に読んだ「〈問い〉から始めるアート思考」にも書いてあった。

「表現の不自由展・その後」の作品は、表現があまりにも直接的であり、それゆえに政治的メッセージがなによりも先に目立ってしまっている、と。

 

日本では、知識人層でも、まだまだアートに対する見方を知らない人が多いらしい。

となると、一般層(私もだ)はいうまでもなくというところか。

この不自由展の騒動では、

1.行政・政府サイドの現代アート表現の自由ということに対する理解不足

2.日本人全体の現代アートに対する理解不足

この2つが浮き彫りになったのかもなぁと。

 

一応、憲法上は検閲はできないことになっている上に、政治的なメッセージを表現することで危害が及ぶということも(ほぼ)無い、恵まれた環境にあるのが日本という国なので、アーティストはもちろん、現代アートを応援したい人も、表現の自由が脅かされるような事態が起きたときには声を上げないといけない。

 

私も、現代アートが理解できなくて、うぐぐ、とはなりつつも、アートが好きなことには変わりない。

だから、この先も現代アートを楽しんでいきたい身としては、アートを取り巻く厳しい状況にスポットを当てた、こういう本を読めてよかった。

 

「知らない」=「無い」ではない。

イコールではないはずなのに、イコールと思ってしまうから怖い。

 

この本を読んで、表現の自由を守るということと合わせて、どこまでなら表現していいのかってことも、重要な問題なんだと思った。

表現の自由は守らなければいけないけど、それは「なんでも表現していい」ってことにはならない。

 

誰かを不快にさせることは、その誰かが有する何らかの権利の侵害にはならない。他方、ある集団に根拠なく負のイメージを重ねることは、重大な人権の侵害になる。

 

個人的には、これに批判や風刺の方向性を加えたい。相手よりも弱い立場にいるか、少なくとも対等出ない限り、批判や風刺を行う権利はない。相手より強い者が行うのは、批判でも風刺でもなく、抑圧でありハラスメントである。(P137より)

 

こういう文章を読むと、表現する人っていうのは、本当にいろんなことを考えないといけないし、浅はかな知識で作ってはいけないなぁと思わされる。

アーティストのインタビュー記事で、「徹底的なリサーチ・研究から入ります」というのをよく見るけど、インスピレーションを得るためということだけじゃなく、深い知識がなければ、アート作品として評価されないことがわかってるからなんだろう。

 

現代アートを殺さないために」を読みながら感じたのは、小崎氏のアートに対する深い愛情。

アートを巡る厳しい状況にスポットを当てつつも、アートに対する深い知識があるからこその本書だと思った。

いま、このとき、この本を読めてよかったです。

アートに興味がない人にも、読んでほしい一冊でした。

 

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