禅を学んで、憂鬱は消えるか。
毎日の憂鬱がとまらなくて、これを止めるには『禅』なんじゃなかろうか、と思い立って、鈴木大拙先生の『禅学入門』を読んでみた。
読んでみた、って書いたけど、実は半分くらいで挫折してしまった。
そもそも序章で、
「禅にあっては個人的経験をもって一切とする」
「ただ人の奥深い心の底において経験される時はじめて理解されるものであるからである」
なんてことが書いてあって、え〜〜そんな〜〜というような気分になってしまった。
本って、言葉で論理的に説明するものだと思ってるんだけれど、「禅にあっては個人的経験をもって一切とする」なんて書かれてしまうと、本で理解するのは無理ということになってしまう。
論理的に理解するということではなく、経験によって理解するっていうのは、体験するということとは違うと思う。
言葉にできないけど、いつか勉強しているうちに、こういうものだと腑に落ちる時がくるってことなんだろうか。
だんだん頭が混乱してきた。
P71ページにこんな文章がある。
首山省念(禅の先生)がある時弟子の集まりに向かって竹篦(しっぺい)を示して言った、
「お前たちがこれを竹篦というなら、それは肯定だ。もしまたそうでないと言うなら、それは否定だ。だが肯定もせず、否定もせずに、さてこれを何と言うか。さあ言って見よ」。
竹篦というのは、禅宗で、先生が参戦者を指導するため打つのに使う竹の棒のこと。
私なりにこれを解釈すると、竹篦という名前を竹篦につけたのは人間(日本人)であって、竹篦にとってはそれは関係ない話なんであって、竹篦は竹篦という名前がなくても、竹篦であるし、竹篦という名前じゃなく、ペリーさんという名前であっても、竹篦には変わりない。
というふうに解釈した。
つまりは私という人間も、Aという名前がついていようが、Bという名前がついていようが、私は私。
と、こういうふうに解釈したけど、合っているのかわからない。
そして、たぶんこんな浅いものでもなくて、もっといろんな解釈があるだろうから、そこらへんはちょっとずつ勉強していくしかない。
しかしこれ、禅を勉強して、憂鬱の軽減に役立つんだろうか。
憂鬱の原因が、自分の生活の行き詰まり感にあるんだと思っていて、それをあるがままに認めていければ、もう少し気楽になれると思っている。
多分、私が憂鬱に陥ってしまっているのは、状況を改善させたいと思っているけど、改善の可能性がなく、改善させる能力もないのに、より良い状況にいる他人と自分とを比べてしまっているところにあるという気がしている。
一番身近な存在だと、夫になるんだが、夫は仕事が割と好きなタイプで、仕事の勉強がそんなに苦じゃなさそう。
そんでもって、会社の待遇も私とは雲泥の差なんである。
一方で、私はというと、仕事のことを考えると苦痛しかないタイプ。
苦痛しかない上に、待遇も、夫とは天と地ほどの差があるんだなぁ。
夫から仕事の話を聞くたびに、私は自分の仕事と比較してしまって、自分の仕事がしょうもないものだと感じてしまう。
そして、そういう仕事にしかつけない自分がどんどん嫌いになっていく。
なので、今の私がなすべきは、今の自分を認めてあげるということなんではないか。
そして、それを体得(?)するには、禅がいいのではないか、とこうなったわけ。
もしかしたら、禅ではなく、仏教とかなのかもしれないけど。
たぶん。
まぁなんにせよ、中身を理解しないことには、自分が求めているものなのか、そうじゃないのかもわからないので、ある程度理解できるまでは、取っ掛かりになりそうな本でも読むしかないな。
夫に、「宗教の勉強をしている」と言ったら、安倍総理の事件のこともあって、深刻に心配された。
こういうとき、日本では、宗教=やばいもの、という認識が根強いなぁと思う。
実際、良くない宗教もたくさんあるんだろうけど、本来は人間の精神を救うものが宗教だと思っているので、食わず嫌いになっている日本の状況はどうなんだろう。