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7月のアート鑑賞@森美術館

森美術館で開催中の『地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーング』展に行ってきました。

ウェルビーイング

これ、私が今最も必要としているやつ!

 

www.mori.art.museum

 

どれもこれも一筋縄ではいかない作品ばかりだったのだけど、今回の展示は作家の紹介文がかなり丁寧で、理解しやすかったのでありがたかった。

ギド・ファン・デア・ウェルヴェ作品

ほとんど写真OKでした。

 

最初に印象に残ったのは、ギド・ファン・デア・ウェルヴェ氏の映像作品。

作家自身が延々と家の周りを回ってたり、延々とお風呂の中で足踏みしてたり、同じ行動をずーっと繰り返している。

この作品を作る過程を考えると、途方もないんだけど、この作品を見ながら、途方もなく同じ作業が延々と続くっていうのが、まさに自分の人生だなぁーっと思った。

毎日、朝起きて、朝ご飯食べて、会社行って、仕事して、家帰って、夜ご飯作って、食べて、お風呂入って、寝る。

私の人生、この繰り返し。

そして、この繰り返しこそ人生。

繰り返しといっても、1回ごとに微妙に違いがあって、それはこの作品でもそうだった。

同じように家の周りを回っているようでも、一度として同じルートはないはずで、一歩一歩、前回とは微妙に違うところを踏んでいるはず。

そしてまた、こういう地味な毎日の繰り替えしを通して、私達は(知らぬ間に)なにかを成しているのかもしれない、と。

人生に意味とか、そういうのを考え始めるから、きっと鬱になるんだ。

 

小泉明郎氏のインスタレーションも面白かった。

映像を見ながら、自分の感情っていうのは、言葉によって規定されているのかもしれない、と。

何かを感じたとき、その感情に、「怒り」「喜び」「楽しい」という言葉を与えることによって、自分で自分の感情を定義しているのかもしれない。

感情って、目に見えるものではないし、本当はもっと複雑で、グラデーションみたいになっていたり、複数の感情が折り重なっているものだ。

そういう目に見えない感情に言葉という枠組みを与えることで、良くも悪くもそれに規定されてしまうんだなぁ、と。

まだ言葉がない感情を、言葉で伝えることができたら、小説家になれそうですね。

 

ロベール・クートラス作品

このロベール・クートラス氏の「リザーブ・カルト」という作品も良かった。

自分の作品をお金に変えることなく、稼ぐという目的無しに描いていたというところに、なんだかアートの本来的な意味というのを考えさせられた。

現代アートは資本主義の賜物という感じがあって、お金持ちがアートを買うから、アーティストはアーテイストという職業を続けられるし、アートを作っていられるというところがあるので、そういうお金や市場原理から切り離されているアートを、美術館で見られるっていうのは、結構貴重かもなと。

毎日、誰に売るわけでも、贈るわけでもなく、延々と作品を作り続けていた作家の思いって、どんなだったんだろう。

単純に奇妙な絵柄や色合いも好きだったな。

 

写真不可で、画像がないのだけど、内藤正敏氏の写真がすーーっごくきれいだった。

写真集を見てみたい。

科学反応を捉えた写真や、山の写真、あと東北の民俗に関する写真なんかが展示されていて、ちょうど梅原猛の『日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る (集英社文庫)』という本を読んだあとだっただけに、タイムリーすぎて、じーっと見てしまった。

余談だけど、「日本の深層」はめちゃくちゃ面白かった。

かなり昔の本なので、今の考古学がどういう認識かはわからないのだけど、東北文化こそ、縄文文化(つまりは日本の源流)を引き継いでいるんじゃないの〜という問題提起をしている本。

これを読むと、モーレツに東北に行きたくなる。

 

毎日暑いし、東北行って、ちょっと涼みたい。

 

話を内藤正敏の写真に戻そう。

展示のなかに、にーっと笑ったおばあちゃんたちの写真があって、それがなんとも言えず印象的だった。

地方のおばあちゃんたちの、ちょっと不気味な感じとか、それを意図して撮ったのかはわからなかったけど、子供のときに感じていた高齢者に対する怖さというのをちょっと思い出してしまった。

 

 

全体的に面白かったな!

(毎回言ってる)

しかし結局、ウェルビーイングとどう繋がっているのか、よくわからん感じだったなぁ。

そもそもウェルビーイングってなんぞやって思ったので(!)、図書館で下↓の予約しておいた。

森美術館のショップにもおいてあったやつ。

わかりやすそうだったので(笑)