思ったこと、考えたこと。

日々のことや、読書のことなど。

街から人を追い出すアートって、悲しすぎる。

 

このまえ読んだ『様式とかたちから建築を考える』が面白かったので、五十嵐太郎先生つながりで読んでみた。

 

気軽に読みはじめたのだけど、本当に頭の痛くなる事が書かれていた。

 

ここ最近、本当に日本はおかしくなっているんじゃないか、と思うことが増えている。

気のせい???

気のせいなら全然いい。

でも、たぶん気のせいじゃないと思う。

 

小崎哲哉氏の『現代アートを殺さないために ソフトな恐怖政治と表現の自由』や、『現代アートとは何か』だとか、稲垣えみ子氏の『寂しい生活』、安宅和人氏の『シン・ニホン 』などなど、どれも視点は異なるけど、読んだあとの感想として、なんだか日本はおかしなことになっている、このままではマズい、と感じたのだった。

 

今回読んだ『誰のための排除アート?』もそのひとつ。

恥ずかしながら、“排除アート”という単語をこの本で初めて知った。

排除アートというのは、公園などの公共空間で、ホームレスなどが居づらくなるように設置された作品等のこと。

(その他にも定義は色々あると思われる)

ja.wikipedia.org

 

1990年代後半くらいから、ベンチに仕切り(肘掛け)を付ける、地面に突起を設置するというような、人が寝られないようにする細工をしたものが日本各地でみられるようになったらしい。

今となっては仕切りがないベンチのほうが珍しいのではないか、と思うくらい仕切り付きベンチをあっちこっちで見かけるようになった。

駅のホームなんかでも、ほとんど仕切りがあるし、公園もそうだ。

 

当初はホームレスを追い出すことを目的に付けられたらしい。

ベンチで横になろう、と思ったことがなかったので、どうしてそういうものが増えたのか、あまり深く考えたことがなかった。

 

この本を読みながら、誰かを排除する動きはどんどんエスカレートしていくんじゃないか、と思って怖くなった。

 

案の定、本書でもその点について書かれていた。

最近は子どもの声がうるさいという苦情を受けて、公園のブランコやジャングルジムなどを撤去する動きがあるらしい。

そうして子ども向け遊具が減っていく一方で、高齢者向けの健康遊具が増えているとか。

 

1998年度〜2013年度までに、箱型ブランコは約9割、ジャングルジムが約2割減ったのに対し、高齢者向け健康遊具は約5.5倍に増えたらしい。

いまの日本では子どもよりも高齢者のほうが多いので、自然な流れかもしれない。

 

子ども向け遊具の減少には、危険だというような別の理由もありそうなので、一概にはいえないけれど、五十嵐先生は「公共空間からの子どもの排除ではないか」と読者に疑問を投げかけていた。

 

私個人の経験としても、“お金を払わずに”居られる空間って、探してみると本当に少ない。

春や秋なら、公園のベンチといった選択肢もあるけれど、夏や冬だと屋外は辛い。

そう思って、屋根があるところを探したのだけど、これが本当に無い。

結局、一番安く済みそうなマックに行くことにして、そのときはやり過ごしたのだった。

 

若い頃は、日本製に対する安心感だったり、日本の治安の良さだったり、日本に住めることを誇りに思っていたけど、最近は日本のいろんな部分に疑問符がつき始めている。

ただ単に、私の視野が広がっただけならいいんだけど、そうなのかなぁ??

 

 

五十嵐先生の本に関する記事↓↓

aaaooooo.hatenablog.com

哲学って楽しいんだなぁ、と思えた本。

めちゃくちゃ良い本だった。

めちゃくちゃ良い本だった。

 

たぶん、いまの私が求めていることが、たくさん詰まっていたからなんだろうな。

筑摩書房から出ている10代に向けたシリーズの一冊。

10代なんてとうの昔に通り過ぎたけれど、別にいいのさ、何歳が読んだって。

(と、開き直るのだ。)

 

全部で4章、総ページ数127ページの、とっても薄い本。

見た目は薄いけど、内容はすんごく濃かった。

 

第2章の『私とはなにか』に書かれている内容が、ものすごく心に残って、くり返し読んでしまった。

 

P36に孤独についての考察があって、そこにこんな文章がある。

 

 現代人が、自分の孤独を空虚であると感じることの理由にもうひとつ、逆説的ですが、自分を何者かであると思うことに慣らされすぎているということがあるでしょう。

 自分とは、社会人の誰それであり、これこれの務めをする者である、等々、誰にも社会的な役回りがあります。その社会的役回りをもって、それを自分だと思い込んでいると、ふとした拍子に、役回りではないところの自分とは何者なのだろうと、人は不安を覚えることになります。役回り、すなわち仮面を剥いでみたら、自分とは何者でもない、自分には何もない。孤独の空虚さが露呈されることになる。

〜中略〜

「女性である」ということもひとつの仮面、大いなる幻想であるかもしれませんよ。もしも本当の自由、自己イメージからの解放を求めるなら、遅かれ早かれ気がつくべきことではありましょう。

 

『言葉を生きる』池田晶子著 より

 

そもそも孤独は空虚なんだろうか?、そして孤独は悪いものなんだろうか?と、いくつもの疑問を投げかけられて、その都度、はて?そうだろうか?と考えさせられる。

 

自分というのは、自分でしかなく、社会的な役回り(=仮面)をいくつも貼り付けたところで、それを剥がしたあとに残るのは、やっぱり自分というものでしか無いんだ。

 

仮面を剥いだあとの自分に、一体何が残るかな?

この残ったもの(=自分)が空虚であれば、どんなにたくさん友達を作っても空虚さは消えない。

だから、まずはこの自分というものを充実させる・好きになることが、大切なんだ。

 

とはいっても、じゃあどうやって???

どうやって、自分を充実させればいいんだろう???

私は、この部分を読んで、たぶん今の私が抱えている諸問題は、自分で自分のことがわかっていないのが原因なのかもしれないと思った。

 

たとえば、仕事は嫌いだ。

じゃあ、何が好きなの??、何がしたいの??って聞かれても、

うーーーーーーん・・・・なんだろう???

これだよ。

これが、あかんのだよ。

 

先日アップしたお買い物考察についてもそうだ。

私がお買い物が下手くそなのは、自分が何を求めているのかがわかっていないのが問題なのかもしれない。

お買い物って、ものすごく個人的なことで、自分軸で考えて選んでいいものなのに、自分がいいと思うものがわからないから、買ったあとに後悔するんだ。

買うときに、自分が好きか、ではなく、いま流行っているとか、誰々がいいって言ってたとか、セールになってるとか、そういうことで選んでいた気がする。

 

そうではなくて、“自分が” 好きだと思ったものを選んでないから、後悔するんだろうなぁ。

自分が好きなものって、自分のことがわかってないと選べない。

池田先生は、自分を思索することの面白さを主張していたけど、この自分を思索する、という行為こそが、いままで私がおろそかにしていたことかもしれない。

 

お買い物だけでなく、このブログも、自分が何を見てどう思ったのかを考える良い訓練になると思っている。

ブログを書くようになってから、本を読むときや、美術展に行ったときに、前よりもよく考えて読んだり観るようになった気がしている。

これも、ある意味では自分を『思索する』ことになるんじゃないかなぁ。

アートを見て、何を思うかっていうのは、買い物と同じでものすごく個人的な経験だ。

きれいだな〜って思ってもいいし、これは嫌いだって思ってもいい。何を感じてもいいという点で、アート鑑賞は孤独な作業だ。

孤独な作業であるために、自分を思索する良い機会とも言える。

 

池田晶子先生は、何を経験するのも自分でしか無いという点で、人間は本来的に孤独なものである、と言っていた。

こういうとすべての行為が、自分を思索することに繋がっているのかもしれない。

 

まだまだ自分のなかで咀嚼できていない部分は多いけど、この孤独考察の部分だけでも、ものすごく面白かった。

総ページ数が127ページとは思えないくらい、付箋を付けまくってしまった。

10代向けということもあって、文体が平易でありがたかった〜。

 

また、自分のなかで、考えがまとまったら、記事にしたいな。

 

言葉を生きる: 考えるってどういうこと? (ちくまQブックス)

 

哲学関係の記事はこちらにも書きました。

aaaooooo.hatenablog.com

最近読んで良かったと思った本(2022年7月)

理由がわかればもっと美味しく作れる! スパイスカレーの教科書  水野仁輔監修 東京カリ〜番長

366日の東京アートめぐり (366日の教養シリーズ)  安原もゆる

図解でよく分かる建築構造入門  江尻憲泰

西洋の名建築がわかる七つの鑑賞術  中島智章

澁澤龍彦 日本作家論集成 上 (河出文庫)  澁澤龍彦

海外ドラマの間取りとインテリア  小野まどか

イッツ・オンリー・トーク 絲山秋子

印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ (NHK出版新書)  中野京子

ミッドナイト・サン トワイライト エドワードの物語 上 (ヴィレッジブックス) ステファニー・メイヤー

ミッドナイト・サン トワイライト エドワードの物語 中 (ヴィレッジブックス)  ステファニー・メイヤー

ミッドナイト・サン トワイライト エドワードの物語 下 (ヴィレッジブックス F メ 1-13)  ステファニー・メイヤー

世界をゆるがしたアート クールベからバンクシーまで、タブーを打ち破った挑戦者たち スージー・ホッジ

私たちはなぜ犬を愛し、豚を食べ、牛を身にまとうのか: カーニズムとは何か  メラニー・ジョイ

日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る (集英社文庫)  梅原猛

様式とかたちから建築を考える  五十嵐太郎

建築計画のリベラルアーツ: 社会を読み解く12章  森傑 他

 

7月は祝日もあったので、6月よりも読めたな〜。

ただ、読書の質が落ちている気がするので、自分のキャパ的には10冊くらいをじっくり読むのが良さそうかな。

 

ミッドナイト・サン トワイライト エドワードの物語 上 (ヴィレッジブックス)』は、超激甘恋愛小説・トワイライトのエドワード視点の本。

トワイライトは昔、学生のころにハマって読んでた小説で、懐かし〜!と思いながら読了。

ほんとに容赦ない激甘全開で、読みながらこっちが照れる(笑)

いや〜〜久々に恋愛小説を堪能した!

 

以下、特に面白かった本!

 

タイトル通りの内容!

 

博識な人が読書をするときって、こういうことを考えているのか〜と、ひたすら感服。とにかく読み込み方がすごくて、ここまで小説を味わうことができたら、読書体験が劇的に変化しそうだな、と思った。

 

そう考えると、もう何回も読み返した夏目漱石の『こころ』なんかは、自分なりに深く読み込めたんじゃないかな〜と思っている。

(逆に言うと、『こころ』以外はそんなに深く読み込めていない、ということでもある汗)

小説は量を読むより、気に入ったものを何回も読み返すほうがその奥深さを感じる事ができそうだなぁ。

 

 

夫が図書館で借りてきたのをついでに読んでみたんだけど、興味深く読了。

日本とはそもそも家のつくりが異なっていて、へ〜〜と。

玄関から直でリビングという間取りがいくつか載っていて、この違いはどこから来たんだろう?はて?ってな感じだった。

どっちがいいかはわからないけど、少なくとも玄関→廊下→リビングの日本型に慣れてしまっている身としては、プライバシーとか、断熱効果とか、そういう点で廊下が間に挟まっている方が何かと便利ではないかなぁと思う。

しかしこういうと今度は家族とのコミュニケーションがどうとか、そういう話が出てきそうだな。

一人暮らしなら日本型、家族持ちなら海外型というふうに使い分けるのも良さそう。

もっと柔軟に住むところを選べるようになればいいなぁと思う。

住宅って、借りるにせよ、買うにせよ、造るにせよ、自分の収入と職場へのアクセスでものすごく制限されてしまう。

家探しは楽しい半面、現実を見ることにもなるのが辛いんだよなぁ。

 

こちらで詳しく書いてます。

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久々に小説を読んだな〜と思った。

アートを観るときもそうだけど、自分の価値観を揺るがされた感じで面白かった。

 

こちらの記事で詳しく書いてます。

aaaooooo.hatenablog.com

 

 

『怖い絵』で有名な中野京子氏のアート本。

中野氏の本は、文章がめちゃくちゃわかりやすくて面白いので、大好き。

『怖い絵』を読んで、アートってこんなに面白かったんだ〜!と再発見させてもらったんだよね。

中野氏の本を読んでから、ちゃんとアートを学びたいって思って、専門家が書いた本なんかも読むようになったり。

今回の本もすごく面白かった。

何も知らないと、「きれいな絵だね〜」で終わってしまうところを、時代背景を知ることによって、「こ、怖い!そんな意味があったなんて・・・」って、見方を180度変えさせられたりする。

エドガー・ドガの『舞台の踊り子』も、すごくきれいな絵で大好きなんだけど、この本を読んだあとだと、単純にきれいだな〜だけでは終わらなくなる。

でも、それが面白いな〜と、楽しく読了。

最後のあとがきを読んで、私が印象派を好きなのは、私にまだしっかりアートを楽しむ素養がないからかもしれないなぁと思った

最近本を読んだりして、なんとか現代アートの見方が分かるようになってきたのだけど、それと同じで、印象派以前のアートについてもキリスト教ギリシャ神話、歴史の知識なくしては楽しむことが難しい。

もっともっと勉強して、あますことなく楽しめるようになりたいな〜と思った。

 

横浜と日本橋界隈の西洋建築の意匠について、かなり解像度高く解説してくれている本。

へー!へー!へー!!!!

みたいな感じで、とにかくその当時の設計者がいかに深く考えてデザインしていたのかということが理解できて、めちゃくちゃ面白かった。

特に旧英国領事館のくだりは、ほんとうにびっくり。

こういうことがわかって観るのと、知らずに観るのとでは、全然見方が変わるよなぁと。

 

こちらの記事にも詳しく書いてます。

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これは面白かったというより、衝撃だった。

ひたすら衝撃だった。

肉食(カーニズム)についての考察と、畜産業の闇について書かれている本。

 

畜産業の闇の部分については、ちょっとびっくりするくらいエグくて、映像じゃないことをありがたいと思ったくらい。

 

この本を読んだあと、ひとまず仕事に行く日のお昼ごはんは菜食にするようになった。

物足りなさを感じるかな〜と思ってたけど、年齢的なこともあって、大して問題はなかったな。

節約にもなって、案外いいかもしれない。

いきなり完全な菜食(ヴィーガン)に変更するのは難しいけど、ハンバーグに豆腐やら大豆やらを混ぜるといった感じで置き換えていく。そうしてちょっとずつ肉食を減らしていく、というのがいいかもな、と思った。

 

この本を読んで、畜産業の闇もある意味では資本主義が生み出したものなのかもなぁと思うところがあって、そういう闇に光があたるようになったのはいいことだと思っている。

ただ、菜食主義がメインストリームになったときに、肉食を非難するようになったりはしないかと、それが怖い。

最近は一方が主流になったときに、亜流をやたらと非難しがちだけど、どっちがいいとは簡単に言えないはずんだ。

何事もゆるく許容して、ほどほどが良いな、と思う。

 

こちらに詳しく書いてます。

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あと、梅原猛の『日本の深層』も面白かった。

かなり昔の本なので、いまの研究ではどのようになっているのかが気になる。

日本の深層のなかでは、あくまで仮説止まりという感じなので、その後の考古学の進展なんかでどうなったのかな〜と。

 

そういえばアイヌ国立博物館ができたというニュースを聞いたな。

nam.go.jp

行ってみたいな〜と思うけど、遠いなーーーー!!!!!

お買い物が上手い人と下手な人(私)について

最近、お買い物好きな人たちのブログにハマっていて、あれこれ検索しては読み漁っている。

その中でも、買ったものを本当に気に入って使っている方の、買ったもの愛を語っているブログが面白い。

(単純にその方の文章が面白いということもあるけど。)

 

どこがどう好きなのか語れるくらい好きって、すごいことだ。

 

例えば、いま着ている服について、どこが好きなの?どうして買ったの?って聞かれても、答えられないんだなぁ。私は。

買ったときはすごく吟味して、これなら!と思って買っているのに、なんだか家に届いた瞬間にどうでも良くなってる。

そうして、家にはそんなに好きでもないものが溢れていて、どれも愛着がないから、使い方も雑になってくる。

じゃあ捨てられるかっていったら、お金を払った手前、もったいなくて捨てることもできない。

 

一時期、食器にハマって買い漁っていた時期があったのだけど、今はもうすっかり飽きてしまって、なんでこんなに買ったんだろう、私・・・ってな感じだ。

(でも使えるから、そのまま使ってる。)

 

こうなると、最早お気に入りでもなんでもなくて、収納に場所をとる邪魔なものという扱いになってしまって、食器も可愛そう。

せっかくお金を出して買ったのに、邪魔なものになってたら自分を幸せにするどころか、買えば買うほど不幸になっていく。

 

買い物が下手であることを自覚してからは、消耗品以外はほとんど買い物をしなくなってしまった。

(節約も兼ねてるけど。)

 

ここ数ヶ月、食品くらいしか買っていない。

案外洋服も、靴も、コスメも、2〜3年くらいは買わないでなんとかなっちゃいそうだ。

 

稲垣えみ子さんの本の影響もある。

 

この本、賛否両論分かれそうではあるけど、この本を読んでから、ますます買い物をしなくなったんだった。

本も図書館で借りるようになったし、洋服も、(もともとそんなに買わない人だったけど)、ひとまず今あるものを消費してから買おうと思ったら、もう全然買う必要がなくなってしまった。

 

お買い物上手な人たちって、どうしてるんだろう???

買ったあと、やっぱりなんか違ったとか、あきちゃったとか、無いんだろうか?

買うときに何を考えて買えば、後悔しないんだろうか。

必要・不必要だけで買い物をするのも一つの手ではあるけど、これではなんだか虚しい。

 

買い物を全然しなくなってから、もともと好きじゃなかった仕事がますます好きじゃなくなってきてしまったのも、買い物下手であることの弊害だ。

毎日こんな嫌な思いして仕事してるのに、仕事で稼いだお金は本当に必要な生活費に消えるだけで(というか、生活費だけで最近はいっぱいいっぱいなんだけど・・・)、自分を幸せにするために使うことができていない。

苦痛な仕事が終わっても、その後に楽しみらしい楽しみがないのだ。

だから毎日の生活に本当に嫌気が差してしまっている。

 

お買い物をするというのは、つまりは稼いだお金をモノに替えるということだ。

ここがうまくできないと、なんのために仕事をしているんだか、わからなくなってきてしまうんだ。

 

お金の使い道を考えるって、単純なようで、自分を幸せにするための重要な課題かもしれない。

最近読んだ本まとめ。資本主義の闇とか。建築とか。その2

最近読んだ本で、面白かったものなどをまとめてます。

 

その1はこちら↓↓

aaaooooo.hatenablog.com

 

今回はその2!

 

最近面白かった本の2冊めはこちら。

 

横浜とか、日本橋界隈の西洋建築をかなり解像度高く紹介してくれていて、ふつうに読み物として面白かった。

 

一番衝撃だったのは、横浜にある「横浜開港資料館旧館(旧英国総領事館)」のくだり。

一見おしゃれな西洋建築物なんだけど、解像度高く見てみると、各種に古代ローマの『凱旋門』のデザインを引用しているらしいことがわかる。

この横浜開港資料館旧館(旧英国総領事館)を設計したのは、英国工務省の設計者。

 

凱旋門というのは、もともとは戦争に勝利したときに建てるもので、そのデザインを引用した建物を、当時の英国工務省が日本に建てたというのは、ものすごく、ものすごーく意味深だ。

英国工務省の設計者が凱旋門の意味や、凱旋門に使われていたデザインを知らなかった訳はないので、やっぱりやっぱりものすんごく意味深だ!!!

 

デザインがわからないと、なんだかかっこよい西洋建築としか思えないけど、デザインの詳細な意味がわかると、設計者が意図したことがわかってきて、建築を見る目が変わってくる。

 

また、各地にある『擬洋風建築物』についても知らないことばかりで面白かったな。

擬洋風建築物っていうのは、単語に「擬」とか、「洋風」とかついているだけあって、本物とは違うんだよ〜という意図が感じられる。

 

この本を読んだ感じでは、日本橋や横浜界隈の西洋建築物は、西洋のデザインをしっかりと学んだ建築家が設計しているのに対して、擬洋風建築物っていうのは町の大工さんが都会の西洋建築物をみて、真似して造ったもの、という印象。

日本全国にあるので、中には違ったものもあるかもしれない。

長野にある開智学校 は、昔、見に行ったことがあるのだけど、そのときはなんだかグロテスクな感じがして、好きになれなかったんだった。

その好きになれなかった意味が、この本を読んでわかった気がした。

つまりは、日本の伝統工法を使いながら、西洋建築に似たようなものを造ったところのギャップがどうにもちぐはぐな感じがして、私は好きになれなかったんだろうなぁと。

西洋建築=石造というイメージがあるけど、開智学校は木造の校舎。

なので、細部が木造を前提にした造りになっている。(そりゃそうだ!)

西洋建築物、という目で見るのではなく、これはこれ、開智学校は開智学校。

オンリーワン、というような目で見てみると、たぶんきっと違う感想になりそうだ。

 

おすすめです。

もともとは展示だったのを本にしたらしい。

展示を見に行きたかったな〜。

最近読んだ本まとめ。資本主義の闇とか。建築とか。その1

 

衝撃の一言だった。

 

今まで、何も考えずに「お肉好き〜!」って思ってたし、公言してた。

お肉って、元をたどれば当然、牛だったり豚だったり鶏だったり、生き物なんである!

当たり前じゃ。

スーパーで、パックに入った食べ物としてのお肉ばかり見ていると、いつしかこれが生き物だったんだ、という感覚が無くなってしまう。

 

前に『シン・ニホン AI×データ時代における日本の再生と人材育成 (NewsPicksパブリッシング)』という本を読んだときに、一箇所だけものすごく引っかかった部分があったのを思い出した。

日本の時代遅れの教育をやめるべきというくだりで、

「前にならえ、とか、ご飯を残すなとか、そういう意味のないことはやめてはどうか?」という著者の意見。

(うろ覚えなのであしからず)

 

ご飯は・・・残してはいかんのではないか・・・?

(といいつつ、私も残すことはあるのだが。)

シン・ニホンの著者としては、「ご飯を残さず食べるまで教室から出ちゃだめ」的なのは意味がないということだったんだと思うんだけど、やっぱり基本はご飯を残すのはあかんのだと思う。

 

現代の日本人から「食べ物のありがたみ」というものが失われているんだろうな。

お肉やお魚を食べ残すということは、より多くの生き物を犠牲にしている、殺しているということなんだ。(当たり前だ)

 

そして、ここが大問題なんだが、食用として育てられる牛や豚、鶏の多くは、生まれてから相当重度のストレス下に置かれ、屠殺されるときも、最悪の場合、意識がある状態で、皮を剥ぐ作業が始まってしまったりする。

牛、豚、鶏にも当然痛みはあるわけで、意識がある状態で・・・と考えただけで想像を絶している。

 

そして、問題はお肉だけではない。

牛乳や、卵産業も、想像を絶していた。

そもそも、なんで牛は年中、母乳を出せるんだろうな〜という疑問。

バカな私は、牛はそういうものなのだと思っていた。

アホすぎる!

 

そんなわけはないんである!

 

人間(女性)が子供を産まないと母乳がでないのと同じように、牛も子供を産まないと母乳は出ないんである。

ということはどういうことかというと、乳牛たちは毎回毎回、強制的に妊娠させられて、子供を産まされているということなんだ。

毎回子供を産まされる上に、子牛はどうなるかというと、雄なら食用、雌なら乳牛になるらしい。

生まれた子牛も最悪な運命が待っている。

 

動物サイドの話だけではなく、人間サイドからみても、肉食ってそんなに良くはないのかもしれない。

肉食をやめる、といったときに、人間がまっさきに心配するのが、健康的にどうなんだろう?という点。

この点についても、著者は疑問を投げかけていた。

菜食主義のほうが健康的だというデータも数多くあるらしい。

ここらへんは、もうちょっと他の本などで調べてみないとわからないけど。

 

また屠殺場で働く人たちも、畜産業の犠牲者なんではないかと。

動物を殺すのが楽しいという特殊な人を除けば、普通の人にとってはものすごくストレス値の高い仕事。

これを毎日毎日やっていたら、たしかに精神的にまいってくる人がいてもおかしくはない。

 

環境負荷という点でも、畜産業はどうなんだろうか。

環境問題の本を読んだときにも書いてあったけど、牛が出すメタンガスや、育てるときのエネルギー負荷を考えると、環境的にも畜産業は負荷が高い。

 

この本を読みながら、畜産業の闇も、結局は資本主義の賜物なんじゃなかろうかと思った。

お肉を、もっと安く、もっと美味しく、もっと手頃に食べたい!っていう人間の欲望の行く末が、今の現状なんではなかろうか、と。

人間の欲望の犠牲になっているのが、畜産業の場合は動物だったということなのかもしれない。

 

ココ最近、資本主義というものに対する不信感が募りすぎている。

資本主義の恩恵を余りあるほど受けているにもかかわらず、今はもう資本主義が行き過ぎている気がしてならない。

これからは資本主義の暴走を止めるシステムが必要なのかもしれない。

 

この本を読んでから、お昼ごはんだけは野菜オンリーにするようになった。

いきなり完全な菜食主義者ヴィーガン)になるのは難しいけれど、この本の著者もおっしゃっていたように肉食を減らすだけでも、少なからず動物を救っていることになると思うので。

 

個人的には、培養肉の開発がもっともっと進むといいな、と思った。

味がそこそこで、値段がそこまで高くなければ、広まる可能性はあると思う。

ja.wikipedia.org

 

もう一冊、読んだ本を載せようと思っていたのだけど、長くなりすぎたので、別記事にします。

 

関連記事↓↓

 

記事には畜産業については書いていないけど、本には畜産業が環境に与える影響についても言及されていた。

aaaooooo.hatenablog.com

aaaooooo.hatenablog.com

 

資本主義の限界について、以前考えた記事。

aaaooooo.hatenablog.com

 

 

7月のアート鑑賞@森美術館

森美術館で開催中の『地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーング』展に行ってきました。

ウェルビーイング

これ、私が今最も必要としているやつ!

 

www.mori.art.museum

 

どれもこれも一筋縄ではいかない作品ばかりだったのだけど、今回の展示は作家の紹介文がかなり丁寧で、理解しやすかったのでありがたかった。

ギド・ファン・デア・ウェルヴェ作品

ほとんど写真OKでした。

 

最初に印象に残ったのは、ギド・ファン・デア・ウェルヴェ氏の映像作品。

作家自身が延々と家の周りを回ってたり、延々とお風呂の中で足踏みしてたり、同じ行動をずーっと繰り返している。

この作品を作る過程を考えると、途方もないんだけど、この作品を見ながら、途方もなく同じ作業が延々と続くっていうのが、まさに自分の人生だなぁーっと思った。

毎日、朝起きて、朝ご飯食べて、会社行って、仕事して、家帰って、夜ご飯作って、食べて、お風呂入って、寝る。

私の人生、この繰り返し。

そして、この繰り返しこそ人生。

繰り返しといっても、1回ごとに微妙に違いがあって、それはこの作品でもそうだった。

同じように家の周りを回っているようでも、一度として同じルートはないはずで、一歩一歩、前回とは微妙に違うところを踏んでいるはず。

そしてまた、こういう地味な毎日の繰り替えしを通して、私達は(知らぬ間に)なにかを成しているのかもしれない、と。

人生に意味とか、そういうのを考え始めるから、きっと鬱になるんだ。

 

小泉明郎氏のインスタレーションも面白かった。

映像を見ながら、自分の感情っていうのは、言葉によって規定されているのかもしれない、と。

何かを感じたとき、その感情に、「怒り」「喜び」「楽しい」という言葉を与えることによって、自分で自分の感情を定義しているのかもしれない。

感情って、目に見えるものではないし、本当はもっと複雑で、グラデーションみたいになっていたり、複数の感情が折り重なっているものだ。

そういう目に見えない感情に言葉という枠組みを与えることで、良くも悪くもそれに規定されてしまうんだなぁ、と。

まだ言葉がない感情を、言葉で伝えることができたら、小説家になれそうですね。

 

ロベール・クートラス作品

このロベール・クートラス氏の「リザーブ・カルト」という作品も良かった。

自分の作品をお金に変えることなく、稼ぐという目的無しに描いていたというところに、なんだかアートの本来的な意味というのを考えさせられた。

現代アートは資本主義の賜物という感じがあって、お金持ちがアートを買うから、アーティストはアーテイストという職業を続けられるし、アートを作っていられるというところがあるので、そういうお金や市場原理から切り離されているアートを、美術館で見られるっていうのは、結構貴重かもなと。

毎日、誰に売るわけでも、贈るわけでもなく、延々と作品を作り続けていた作家の思いって、どんなだったんだろう。

単純に奇妙な絵柄や色合いも好きだったな。

 

写真不可で、画像がないのだけど、内藤正敏氏の写真がすーーっごくきれいだった。

写真集を見てみたい。

科学反応を捉えた写真や、山の写真、あと東北の民俗に関する写真なんかが展示されていて、ちょうど梅原猛の『日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る (集英社文庫)』という本を読んだあとだっただけに、タイムリーすぎて、じーっと見てしまった。

余談だけど、「日本の深層」はめちゃくちゃ面白かった。

かなり昔の本なので、今の考古学がどういう認識かはわからないのだけど、東北文化こそ、縄文文化(つまりは日本の源流)を引き継いでいるんじゃないの〜という問題提起をしている本。

これを読むと、モーレツに東北に行きたくなる。

 

毎日暑いし、東北行って、ちょっと涼みたい。

 

話を内藤正敏の写真に戻そう。

展示のなかに、にーっと笑ったおばあちゃんたちの写真があって、それがなんとも言えず印象的だった。

地方のおばあちゃんたちの、ちょっと不気味な感じとか、それを意図して撮ったのかはわからなかったけど、子供のときに感じていた高齢者に対する怖さというのをちょっと思い出してしまった。

 

 

全体的に面白かったな!

(毎回言ってる)

しかし結局、ウェルビーイングとどう繋がっているのか、よくわからん感じだったなぁ。

そもそもウェルビーイングってなんぞやって思ったので(!)、図書館で下↓の予約しておいた。

森美術館のショップにもおいてあったやつ。

わかりやすそうだったので(笑)