めちゃくちゃ良い本だった。
めちゃくちゃ良い本だった。
たぶん、いまの私が求めていることが、たくさん詰まっていたからなんだろうな。
筑摩書房から出ている10代に向けたシリーズの一冊。
10代なんてとうの昔に通り過ぎたけれど、別にいいのさ、何歳が読んだって。
(と、開き直るのだ。)
全部で4章、総ページ数127ページの、とっても薄い本。
見た目は薄いけど、内容はすんごく濃かった。
第2章の『私とはなにか』に書かれている内容が、ものすごく心に残って、くり返し読んでしまった。
P36に孤独についての考察があって、そこにこんな文章がある。
現代人が、自分の孤独を空虚であると感じることの理由にもうひとつ、逆説的ですが、自分を何者かであると思うことに慣らされすぎているということがあるでしょう。
自分とは、社会人の誰それであり、これこれの務めをする者である、等々、誰にも社会的な役回りがあります。その社会的役回りをもって、それを自分だと思い込んでいると、ふとした拍子に、役回りではないところの自分とは何者なのだろうと、人は不安を覚えることになります。役回り、すなわち仮面を剥いでみたら、自分とは何者でもない、自分には何もない。孤独の空虚さが露呈されることになる。
〜中略〜
「女性である」ということもひとつの仮面、大いなる幻想であるかもしれませんよ。もしも本当の自由、自己イメージからの解放を求めるなら、遅かれ早かれ気がつくべきことではありましょう。
『言葉を生きる』池田晶子著 より
そもそも孤独は空虚なんだろうか?、そして孤独は悪いものなんだろうか?と、いくつもの疑問を投げかけられて、その都度、はて?そうだろうか?と考えさせられる。
自分というのは、自分でしかなく、社会的な役回り(=仮面)をいくつも貼り付けたところで、それを剥がしたあとに残るのは、やっぱり自分というものでしか無いんだ。
仮面を剥いだあとの自分に、一体何が残るかな?
この残ったもの(=自分)が空虚であれば、どんなにたくさん友達を作っても空虚さは消えない。
だから、まずはこの自分というものを充実させる・好きになることが、大切なんだ。
とはいっても、じゃあどうやって???
どうやって、自分を充実させればいいんだろう???
私は、この部分を読んで、たぶん今の私が抱えている諸問題は、自分で自分のことがわかっていないのが原因なのかもしれないと思った。
たとえば、仕事は嫌いだ。
じゃあ、何が好きなの??、何がしたいの??って聞かれても、
うーーーーーーん・・・・なんだろう???
これだよ。
これが、あかんのだよ。
先日アップしたお買い物考察についてもそうだ。
私がお買い物が下手くそなのは、自分が何を求めているのかがわかっていないのが問題なのかもしれない。
お買い物って、ものすごく個人的なことで、自分軸で考えて選んでいいものなのに、自分がいいと思うものがわからないから、買ったあとに後悔するんだ。
買うときに、自分が好きか、ではなく、いま流行っているとか、誰々がいいって言ってたとか、セールになってるとか、そういうことで選んでいた気がする。
そうではなくて、“自分が” 好きだと思ったものを選んでないから、後悔するんだろうなぁ。
自分が好きなものって、自分のことがわかってないと選べない。
池田先生は、自分を思索することの面白さを主張していたけど、この自分を思索する、という行為こそが、いままで私がおろそかにしていたことかもしれない。
お買い物だけでなく、このブログも、自分が何を見てどう思ったのかを考える良い訓練になると思っている。
ブログを書くようになってから、本を読むときや、美術展に行ったときに、前よりもよく考えて読んだり観るようになった気がしている。
これも、ある意味では自分を『思索する』ことになるんじゃないかなぁ。
アートを見て、何を思うかっていうのは、買い物と同じでものすごく個人的な経験だ。
きれいだな〜って思ってもいいし、これは嫌いだって思ってもいい。何を感じてもいいという点で、アート鑑賞は孤独な作業だ。
孤独な作業であるために、自分を思索する良い機会とも言える。
池田晶子先生は、何を経験するのも自分でしか無いという点で、人間は本来的に孤独なものである、と言っていた。
こういうとすべての行為が、自分を思索することに繋がっているのかもしれない。
まだまだ自分のなかで咀嚼できていない部分は多いけど、この孤独考察の部分だけでも、ものすごく面白かった。
総ページ数が127ページとは思えないくらい、付箋を付けまくってしまった。
10代向けということもあって、文体が平易でありがたかった〜。
また、自分のなかで、考えがまとまったら、記事にしたいな。
言葉を生きる: 考えるってどういうこと? (ちくまQブックス)
哲学関係の記事はこちらにも書きました。