思ったこと、考えたこと。

日々のことや、読書のことなど。

年収1000万の人の言うことが悲しすぎて、泣けてくる。

この前、ちょっとした会話で、こんなのがあった。

 

「今の若い人って、休日は何やってるんだろう? テニスもやらないし、ゴルフもやらないし、暇じゃない?」

 

「お金がないんすよ。」

 

「は??」(私の心の声)

 

「お金がないんすよ。」って言った人は、年収1000万付近(推定)。

なんで推定なのかというと、所得税が30%超えてるっていう発言から推測したため。

 

年収1000万円って、一昔前はすごいお金持ちみたいなイメージだったけど、たしかに今は年収1000万でも、「すごいお金持ち」ではないかもしれない。

 

年収1000万円の人の手取りはだいたい720万円くらい。

それを単純に12ヶ月で割ると、1ヶ月あたりの手取りは60万円。

 

1人暮らしで毎月の手取りが60万円あれば、だいぶ豊かに生活できそうだけど、都内で家族4人(夫・妻・子供2人)で暮らしていると想定したら、どうだろう?

 

共働きではなく、専業主婦世帯として、考えると、月の生活費は37万円(ネット情報)。

これには住居費が入っていないので、ここに仮に10万円の家賃をプラスすると、月の支出は47万円。

 

となると、毎月の残りは13万円。

この内、半額を貯金に回すと考えたら、残りは6万5千円。

そんなに贅沢はできないのかもしれない。

ゴルフとか、テニスとか、お金が掛かりそうな趣味ができるほどの余裕はないかもなぁ。

そもそも都内で4人ぐらしの家賃が10万っていうのも、結構無理がある設定だしな。

 

家賃が低い地方に住んでるとか、共働きで、プラスαの収入があるとかじゃないと、贅沢はできなさそうだ。

 

仮に一人暮らしだったとしても、今の若い人たちは、年金は貰えなさそうという不安があるので、「貯金しなきゃ・投資しなきゃ」とか、そういうことを考えている気がする。

現に、上記の発言をした人も、お金のかかる趣味はなく、ブランド物を持つわけでもなく、慎ましい暮らしぶり。

 

まあ、安月給の身からすると、人を養えるだけで十分お金持ちなんだけど!

(毎月の支出を考えると、私の給料では夫一人養うのもギリギリなんである)

 

こう考えると、子供を作るっていうのも、かなりの一大決心。

つい最近まで「子供欲しい」って言ってた子(同僚)が、「よくよく考えると、子供作ったらいろいろ我慢しないといけないし、そんなお金ないな・・・」とか言い出していた。

 

そういう私も子供を作ることによって生じる(自分の)犠牲のほうに目が行ってしまって、子供を作ることになんの魅力も感じない一人なんである。

経済的にも、体力的にも、精神的にも、時間的にも、すべてが苦しくなる印象しかないんだよなぁ。

特に学校のPTAとか、ママ友付き合いとか、考えただけでうんざりする。

子供の教育問題も難しい。

今の日本の教育では子供の将来が不安。となると親がいろいろ考えて、フォローしないといけないのかなぁと思うと、もうね・・・

 

無理無理無理無理無理ムリムリムリムリ絶対無理ーーー!!!!!!

 

ってな感じだ。

 

多分、楽しいこともあるとは思うんだけど、こういうマイナス面の想像しか働かない時点で、私は子供を作る資格はないんであった。

 

『シン・ニホン』にも書いてあったけど、環境面から考えると日本は人口過多なので、ある程度の少子化(ならぬ人口減少)はむしろいいのかも知れない。

経済成長とか、高齢者をどうやって支えていくのか、とか、いろいろ問題はあるけれど。

 

そしてまた年収1000万くらいになると、給料の限界を感じるらしく、もうこれ以上稼いでも税金に取られるだけ、という感覚になるらしい。

これ以上仕事して税金に消えるくらいなら、さっさとお金ためて、FIREしたいと思うらしい。

まぁ、一生懸命働いても税金で取られて、高齢者の年金に消えているのかも(そして自分は年金貰えないかも)と思うと、やる気もなくなるのはわかる気がする。

 

話があっちこっち飛びまくったけれど、推定年収1000万の人の生活を聞いていると、予想以上に慎ましくて、なんだか泣けてくるって話でした。

夢がない記事で、申し訳ない。

CIAが9.11を防げなかった理由がわかる『多様性の科学』:マシュー・サイド著

ダイバーシティという言葉があっちこっちで言われるようになって久しいけれど、多様性がどうして大切なのかというのを理解したいと思って、読んだ本。

 

多様性の科学』著者:マシュー・サイド

 

最高の人材を採用してきたはずCIAが9.11のテロを見逃したのは、職員のほとんどが「白人、男性、アングロサクソン系、プロテスタント」で構成されていたからではないか。

 

同じ系統の人たちしかいないとしても、“最高の人材”なのであれば問題ないのでは?

多様性とは別のところに問題があったのでは?

 

こういう疑問に対して、一つ一つ論理的に解説してくれているのが本書。

 

前回記事に書いた『存在しない女性たち』は、女性の意見を取り入れたほうがもっと良くなるよーということを書いていたけど、『多様性の科学』はさらに踏み込んで、多様な意見を取り入れたほうがもっと良い解決策・案が出てくるよーというお話。

 

結局いろんな視点を持った人たちが集まったほうが、死角が少なくなるという話。

そりゃそうだなぁ、と読みながら納得。

 

この本を読みながら恐ろしいなと思ったのは、社会が不安定だったり経済が停滞しているとき、人間は支配型のリーダー(支配型のヒエラルキー)を求めがちというところ。

その人についていけばいい、という安心感を求めるからなんだろうな。

この一番の問題は、人間が思考停止に陥っているということ。

リーダーがめちゃくちゃ素晴らしい人間だったら、問題ないかも知れないけど、悪い人だったら最悪だ。

 

そして私も今まさに、この状態だった・・・。

自分の先行きの見えなさに憂鬱になることが多くて、だからこそいろんな本を読んでみたり、宗教や哲学に興味を持つようになっているところがある。

そして日本人の精神を学びたいと思っているのも、拠り所を求めている自分がいるからかもしれない。

『多様性の科学』を読みながら、自分の今の状況にハッとした。

 

なにか、拠り所みたいなものを求め始めたら、思考停止状態になっているかもしれない、と自分に問いかけよう。

 

もう一つ驚いたのが、相手と自分の間に信頼関係がない場合は、どんなにエビデンスを示しても、自分の主張が正しいと相手に認めてもらうことは困難というところ。

なので、まずは信頼関係を作ることが大切。

(いや、それも難しいわ!っていうツッコミは入れないでおこう。)

 

この部分を読みながら、夫が私の話を基本的に疑ってかかるのは、私のことを信頼していないからなのかも知れない、と思った(汗)

 

本を読むとその話を誰かにしたくなるので、たいていの場合、夫に話をする。

私:「ねーねー、この本によると、こうなんだって!」と言うと、

夫:「そんなはずはない」

と一蹴されることが結構ある。

これって・・・。

私が信頼されていない、ということかもしれん。

 

もうちょっと夫に信頼されるように頑張ろうと思いました・・・。

 

この“信頼”っていうのも、やっかいな代物。

たとえば“医者”とか、“弁護士”とか、“科学者”とか、そういう権威のある肩書がついていると、無条件に信じてしまうことがある。

ある場合には効率が良いけど、ある場合には危険。

ヤブ医者かもしれないし、ヤブ弁護士かもしれない。

無条件に信じていいか、すこし立ち止まって考える習慣を身につけないとなーと思った。

 

一時期、メンタリストDaigoのyoutubeにハマっていて、それはDaigoの『めちゃくちゃ本読んでる』、『各国の論文をめちゃくちゃ読んでる』、『慶応卒』という権威に、無条件の信頼を寄せていたからかもしれない。

今、あらためて考えるとDaigoの演出は、かなりよく考えられていたような気がする。

人を信頼させるための演出が凝らされていたというか。

人気ユーチューバーの傾向なんかをデータ化したら、結構面白そう。

 

そういえば、『影響力の武器』というベストセラー本にも、権威というもののやっかいさが書かれていたなぁ。

 

多様性の科学

読み物としてめちゃくちゃ面白かった。

この本のように具体的なエピソードが載っていると、面白いなー。

 

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女性に関するデータ不足が及ぼす影響は計り知れない:『存在しない女たち』(キャロライン・クリアド=ペレス)

先日、「存在しない女たち」(著者:キャロライン・クリアド=ペレス)を読んだ。

 

女性に関するデータ不足のために、あらゆる分野において女性が悪影響を受けているかも知れない、ということを分析している本。

 

もちろんある部分においては、データが存在しないために、著者の仮説も含まれてはいるけれど、それにしても思い当たる節がかなりあったのは事実。

 

たとえば、公共施設におけるトイレ。

男性トイレはいつも空いているのに、女性のトイレはいつも行列になっている。

これ、当たり前の風景すぎて、疑問にすら思わなかった。

でも、よくよく考えると、なんで、女性のトイレだけが混んでいて、男性のトイレは混まないのか。

 

そもそも、トイレの数は適正なのか??

 

男性トイレは小便器一台あたりの面積が小さいため、トイレ全体の面積が同じなら、女性トイレよりも設置する個数が多くできる。

また男性のほうが所要時間が短いため、女性と同じ個数にした場合、回転数(さばける数)が男性のほうが多くなる。

女性のほうが、トイレ一台あたりの面積が大きい、また生理中・妊娠中の場合には所要時間が長くなるために、平均所要時間が男性よりも長い。

だから、男女同じ面積でトイレの設計をしてしまうと、女性トイレが必要数を満たしていない可能性がある。

(もちろんその施設の用途によっては、男性のトイレを多くする必要がある場合もある)

 

ポイントは、こういうことを設計段階で考えているか?ということ。

設計段階で考慮するためには女性に関するデータが必要なのと、そのデータを活かさないといけない。

 

うーむ。

 

問題は公共施設だけじゃないです。

車や、スマートフォン、都市計画、住宅、農機具など、女性に関するデータが反映されていないものはたくさん。

 

一番衝撃だったのは、医療分野。

女性と男性で体の作りが違うのは、だれもが知っていることであるにも関わらず、まさかの医療分野においても、女性が無視されているらしい。

えぇぇぇ???

医療分野で??という衝撃。

どの分野よりも詳しいはずでは!?!?

と思ってしまった。

 

どういうことかというと、まず薬の開発で、女性と男性でどれくらい効き目に違いがあるのか(または悪影響があるのか)というデータ分析が不十分ということ。

男性の治験者しかいないために、もしかしたら女性には効くかもしれない薬が、開発されないままになっているかもしれない。

逆もあって、女性には悪影響がある薬が問題ないものとして使われていることもあるかもしれない。

なんにせよ、性別を分けたデータがない(少ない)から、わからない。

 

また、健康のためにどんな運動をすればよいのか、ということについても、男性中心の研究に基づいてアドバイスされているらしい。

最近流行りの「HIIT」。

これ、女性にはあまり効果がないという研究があるとのこと。

えーーー!!!!

 

おそらく、この本で紹介されていることは、氷山の一角なんだろう。

性差別主義者でないと自認している人ほど、性差別者的な振る舞いをしがちであるという研究データがあったり、女性研究者の論文は男性が書いた論文に比べてはじかれてしまうケースがあったり。女性研究者の論文は、女性が書いたとわからないようにしたら、雑誌に掲載される件数が増えたらしい。

 

自分に偏見はない、という思い込みこそ、偏見を助長しているのかもしれない。

ポイントは、この本にあげられている事例が、悪意によるものではないということ。

そうではなくて、女性のことが考えられていない、女性の意見が全く反映されていない、ということ。

悪意によるものではないからこそ、何世紀も改善されなかったのかもしれない。

 

この本に書かれていることを、夫に話してみた。

その時の反応はこんな感じ。

 

『その本はかなり内容が偏っているみたいだから、信じすぎないほうがいい』

 

読んでもいないのに、すごい感想だ(笑)

女性が女性の権利を主張すると、男性は自分の権利が脅かされる、と思うのかも知れない。

私の夫も決して性別差別主義者ではない(はず)。

それでも私の夫のような反応を示す人が、あらゆる社会にいるのかも。

ここまであからさまじゃなくても、潜在的にそう思っている人は多いのかもしれない。

 

そうなると、この本にかかれている問題は、かなり根が深そうだなぁ。

 

存在しない女たち』(キャロライン・クリアド=ペレス)

男性にこそ、読んでほしいけれど、読んでくれるかしら。

最近読んで良かったと思った本(2022年5月)

5月に読んだ本リスト

ハ・ワン   あやうく一生懸命生きるところだった
内藤昌    江戸の町(上)
林望     「芸術力」の磨きかた
原田マハ・高橋瑞木 現代アートをたのしむ
関谷真一   世界で一番やさしい木造住宅
三島由紀夫  女神
岡本裕一朗  いま世界の哲学者が考えていること
小崎哲哉   現代アートを殺さないために ソフトな恐怖政治と表現の自由
梅原猛    日常の思想
氷室冴子   なんて素敵にジャパネスク1〜10
安宅和人   シン・ニホン

 

印象に残った本。

紹介したい本ばかりだけど、特に面白かったのがこの5冊。

現代アートをたのしむ

いま世界の哲学者が考えていること

現代アートを殺さないために

日常の思想

シン・ニホン

 

現代アートをたのしむは、現代アートの楽しみ方の指南書的な感じで、面白い。

初心者向けに書かれている本なんだけど、アート用語がじゃんじゃん出てくるので、そこらへんは容赦ないです。

 

原田マハさんと高橋瑞木さんの共著なので、それぞれが書かれている部分と、対談部分で分かれていた。

対談部分では、アートが好きになったきっかけなど、個人的なエピソードなんかも書かれていて、ちょっと親近感を覚えたのはここだけの話(笑)

いま知っておきたいアーティストリストや、行ってほしい美術館がリストアップされていたのも、初心者としては嬉しいところ。

リストに上がっていた「広島市現代美術館」「丸亀市猪熊弦一郎現代美術館」はぜひとも行ってみたい。

猪熊弦一郎現代美術館は、建築的にも面白そうだったので、一度でいいから行ってみたいなぁ。

谷口吉生設計のようです。

 

こちらに詳しく感想書いてます。

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いま世界の哲学者が考えていることは、哲学者の目を通してみた現代、という視点で書かれていて、興味深かった。

 

AI、バイオテクノロジー、資本主義、環境問題、宗教などについて、哲学者がどのように考えているのか、を知る入門書として良かった。

哲学を知りたい!と思うことが周期的に来るのだけど、哲学書って私には本当に難しくて、断念すること数回・・・。

哲学がどうこうという以前に文章が難解すぎて理解できない・・・(泣)

なもんで、わかりやすい文章で解説してくれている本書は本当にありがたかった。

しかも、それが現代の問題とリンクして書かれているので、実感として理解しやすかった。

特に資本主義については、ここ最近自分でも懐疑的になっていたところだったので、哲学者の意見を知ることができたのは、よいタイミングだった。

 

こちらの記事に、詳しく感想を書いてます。

aaaooooo.hatenablog.com

 

日常の思想」は哲学つながりで読んだ本。

物々しいタイトルだけど、エッセイ感覚で読める哲学本だった。

こういう本から読めばよかったのだ。

哲学書に苦手意識のある方に、ぜひ手にとってもらいたい。

 

この本を読んで、禅思想、仏教思想、そして中国文化なんかを学びたいと思った。

そこらへんを理解しないと、日本文化を理解するのは無理そう。

日本の文化と禅・仏教は切り離せないし、中国や朝鮮の文化とも切り離せない。

次に読んだ「現代アートを殺さないために」にも書かれているように、日本文化はいろんな国の文化を取り入れて、それをアレンジしてきたという経緯がある。

だから日本文化を学ぶのであれば、取り入れた先の文化も理解しないことには始まらない。

うむむ。

時間がいくらあっても足りませんな。

 

現代アートを殺さないために」は、日本と世界を取り巻く「表現の自由」について書かれたもの。

日本では検閲は禁止されているが、それに近い行為はあるのかもしれないと、警鐘を鳴らしている本。

 

良くも悪くもパッと見ただけでは分かりづらいのが現代アート

というのは、作品に込めたコンセプトを多義的に表現したものが現代アートだから。

それが傑作であればあるほど、多義性は深みを増していく。

だから、どうしてもパっと観ただけでは分かりづらい。

現代アートは観るものではなく「読むもの」と書かれていて、そっかー、だからわかりづらいんだなぁと納得したんでした。

 

ある一部分だけをみて、理解もせずに、これはだめ!と決めつけることはしない人間になりたい。

 

これは、本当に色んな人に読んでほしい本だった。

 

この本を読みながら、民主主義の良し悪しということを考えてしまった。

国民が自ら自分たちのトップを決める、ということになんの問題があるの?と思っていたけど、それはすべての国民が正しい判断をするときだけの話であって、国民がいつも正しい判断をするとは限らないし、正しい判断ができる情報が国民に与えられているとも限らない。

「日常の思想」にも民主主義の問題点を指摘している部分があった。

じゃあどうしたらいいの?って言われると、まぁわからないんですがね(あわわ)

 

こちらに詳しく書いてます。

aaaooooo.hatenablog.com

 

シン・ニホン」は、私が言うまでもなくベストセラーになっている本ですが、やっぱり読んでよかった。

日本がどれだけ『ヤバい』状況なのかというのを分析しつつ、今後の未来に繋げていくためにこういうことをしていこうよ〜と提案している本書。

 

この本を読んだ後、私個人ができることってなんだろう?って考えて、

1.選挙に行く

2.定年後も働けるように準備する

3.若い人を応援する

 

この3つかな、と思った。

1.選挙はやっぱり大切。

立候補者の公約をよく読んで、本当に日本の未来にとって良いと思う人に投票しないといけない、と当たり前のことを当たり前のように感じた。

そして周りの意見に振り回されるのもだめだ。

大衆の意見が必ずしも日本の未来にとっていいとは限らない。

(↑ これがほんとーにほんとーに大事なこと)

だから、大切なのは一人ひとり(特に若い人)が自分の頭で考えるということ。

まぁ、これができたら苦労しないんだけど。

 

2.定年後も働けるようにする

現状、日本の予算配分が高齢者に偏っていることを考えると、現役世代の負担を軽くしてあげる努力をする必要がある。

なので、定年退職ということにとらわれずに、働けるうちは働こうよ、というのが本書の提案。

まぁ確かにごもっとも。

仕事って本来は生きがいであるはずなのに、今の私にとっては苦痛になってしまっているので、そこの改善から考えていきたい。

 

3.若い人を応援する

優れたイノベーションや発明は、若い人(20代〜30代前半くらい)が起こしていることが多いらしい。

だから、若い人の発想やアイデアは潰さないようにしていきたい。

あと、年をとっても新しいことに触れるようにしていきたい。

 

余談だけど、シン・ニホンのなかに日本の教育システムについて言及されている部分があって、それが先に読んだ「現代アートを殺さないために」の中に出てきた会田家の「檄」という作品とかなりリンクしていて、びっくりした。

「檄」という作品は、幟のような布に、文科省の教育方針へのいちゃもんが書かれている作品。

書かれている内容はこんなかんじ↓(一部抜粋)

文部科学省に物申す

もっと教師を増やせ。〜略〜 未来の資源に予算を回せ。教師を働かせすぎ。みんな死んだ目をしているぞ。〜略〜 もっとゆっくり弁当食わせろ。十分で食えって軍隊かよ。運動会が変。組体操やめろ。〜略〜 カバンが重い。早くタブレット一つにしろ。〜略〜 従順人間作る内申書というクソ制度。いつまで富国強兵殖産興業のノリなんだ。素直な組織人間作って国が勝てる時代はとっくに終わってる。

(「現代アートを殺さないために」P204 より)

 

シン・ニホンを読んだ方ならわかると思うんだけど、言い方が違うだけで、指摘している内容は「シン・ニホン」も「檄」も一緒だと思う。

シン・ニホンの出版は2020年。

この「檄」という作品は2015年のもの。

シン・ニホンが出版される5年も前に、アーティストが日本の教育システムに警鐘を鳴らしている。

 

現代アートが「炭鉱のカナリア」と呼ばれている理由がちょっとわかった気がした。

 

まとめ

現代アートだけじゃなくて、もう少し日本文化寄りの本も読んで行こうと思った5月の読書だった。

日本大好き!ということではなくて、自分のアイデンティティに大きく影響しているのが日本文化だと思うので、自分の国のことくらい理解したいな〜というのが大きい。

 

とにかく毎日が憂鬱なのを、どうにかしたくて読書しているところがあるんだけど、一向に解決の目処が立たない。

 

日本にも検閲はあるのかもしれない。「現代アートを殺さないために〜ソフトな恐怖政治と表現の自由〜」(小崎哲哉)

先日、「現代アートを殺さないために」という本を読んだ。

 

現代アートを殺さないために〜ソフトな恐怖政治と表現の自由〜」(著者:小崎哲哉)

 

タイトルだけ見て、「とりあえず現代アートの本っぽい」ということで読んでみたのだけど、現代アートを取り巻く日本(や世界)の状況について書かれている本だった。

かなり綿密なリサーチを元に書かれているようで、何も知らなかった人間としては驚くばかりだった。

 

日本では、建前上は「検閲」は無いということになっている。

というより日本では、憲法21条で、検閲は禁止されている。(以下、抜粋)

第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

憲法上は禁止されているけれど、問題はどこまでが検閲でどこまでが規制なのか、ということ。

どんなことにもルール(規制)は必要。

だから、ルールと検閲をどう線引するのか、っていうのをよくよく考えないといけない。

 

この本を読むまで、私はどこまでが検閲で、どこまでが規制なのかなんて、正直、考えたことすら無かった。

たとえば、R15とか、R18というふうに、年齢制限を設ける(しかし公表はする)のは検閲ではなく、制限・規制の範疇だと思う。

公権力によって、政治的な理由などで表現や公表・展示自体が禁止されるというのが検閲ということになるんだろう。

 

本書の中に、あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」について、記載している部分があって、これはかなり印象的だった。

私は「表現の不自由展・その後」について、あまり詳しくは知らなかったのだけど、当時ひっきりなしにニュースで取り上げられていたのは記憶にある。

従軍慰安婦をモチーフにした(ように見える)「平和の少女像」や昭和天皇の写真を燃やすシーンのある映像作品に批難が集まり、ついには展示会が中止になってしまったという。

 

この展示の良し悪しとか、賛否はともかくとして、

個人的には愛知県知事の、

「国の補助金をもらうんだから国の方針に従うのは当たり前だという人がいるが、税金でやるからこそ、公権力でやるからこそ、表現の自由は保証されなければいけない」

という発言がごもっともだなあ、と思った。

 

当時は名古屋市長や政治家などが、平和の少女像は反日作品だとして、この展示の取りやめを主張したらしい。

しかし、行政サイド・公権サイドにいる人間が、少なくともアートとして展示されているものの取りやめを主張してしまうのはマズい。

 

しかし、ここで次の問題が浮上する。

何をもってアートなのか、という問題。

著者の小崎氏は、

良いアート作品には、既成概念の打破のような大きなコンセプトに、様々な解釈が可能な動機や、別の主題を含んだ小さな仕掛けが重ね合わされている。〜中略〜 知的・概念的な要素と感覚的な要素、特に前者が、層(レイヤー)を成して作品に組み込まれ、大きなテーマと響き合って作品に深みを与える。

 

アーティストが作品に組み込んだレイヤーは、鑑賞者に様々なことを想像、想起、連想させる。想像、想起、連想の結果が作品全体のコンセプト理解に役立つ。デュシャンが言うように、想像的行為はアーティストだけでは果たされない。「鑑賞者が、作品の内なる特質を解読し、解釈することによって作品を外界に接触させ、かくして自らの貢献を創造的行為に加える」。そのために補助線的な役割を果たすものがレイヤーである。レイヤーをいかに構築するかがアーティストの腕の見せ所であり、その巧拙が作品の質を左右する。一般的に、良い作品はレイヤーが多く、深く、すなわち豊かである。豊かなレイヤーは、作品そのものを豊かにする。(P96-P97より)

 

この点でいうと、不自由展の作品は、アートではあるけれど、レイヤーが少なく「良い作品」とは言えないものが多かったらしい。

だから、政治的なコンセプトが前面に出てしまい、現代アートの見方を知らない人たちの批判を浴びることになってしまったのではないか、と。

うーむ。

これと同じようなことが、先に読んだ「〈問い〉から始めるアート思考」にも書いてあった。

「表現の不自由展・その後」の作品は、表現があまりにも直接的であり、それゆえに政治的メッセージがなによりも先に目立ってしまっている、と。

 

日本では、知識人層でも、まだまだアートに対する見方を知らない人が多いらしい。

となると、一般層(私もだ)はいうまでもなくというところか。

この不自由展の騒動では、

1.行政・政府サイドの現代アート表現の自由ということに対する理解不足

2.日本人全体の現代アートに対する理解不足

この2つが浮き彫りになったのかもなぁと。

 

一応、憲法上は検閲はできないことになっている上に、政治的なメッセージを表現することで危害が及ぶということも(ほぼ)無い、恵まれた環境にあるのが日本という国なので、アーティストはもちろん、現代アートを応援したい人も、表現の自由が脅かされるような事態が起きたときには声を上げないといけない。

 

私も、現代アートが理解できなくて、うぐぐ、とはなりつつも、アートが好きなことには変わりない。

だから、この先も現代アートを楽しんでいきたい身としては、アートを取り巻く厳しい状況にスポットを当てた、こういう本を読めてよかった。

 

「知らない」=「無い」ではない。

イコールではないはずなのに、イコールと思ってしまうから怖い。

 

この本を読んで、表現の自由を守るということと合わせて、どこまでなら表現していいのかってことも、重要な問題なんだと思った。

表現の自由は守らなければいけないけど、それは「なんでも表現していい」ってことにはならない。

 

誰かを不快にさせることは、その誰かが有する何らかの権利の侵害にはならない。他方、ある集団に根拠なく負のイメージを重ねることは、重大な人権の侵害になる。

 

個人的には、これに批判や風刺の方向性を加えたい。相手よりも弱い立場にいるか、少なくとも対等出ない限り、批判や風刺を行う権利はない。相手より強い者が行うのは、批判でも風刺でもなく、抑圧でありハラスメントである。(P137より)

 

こういう文章を読むと、表現する人っていうのは、本当にいろんなことを考えないといけないし、浅はかな知識で作ってはいけないなぁと思わされる。

アーティストのインタビュー記事で、「徹底的なリサーチ・研究から入ります」というのをよく見るけど、インスピレーションを得るためということだけじゃなく、深い知識がなければ、アート作品として評価されないことがわかってるからなんだろう。

 

現代アートを殺さないために」を読みながら感じたのは、小崎氏のアートに対する深い愛情。

アートを巡る厳しい状況にスポットを当てつつも、アートに対する深い知識があるからこその本書だと思った。

いま、このとき、この本を読めてよかったです。

アートに興味がない人にも、読んでほしい一冊でした。

 

www.amazon.co.jp

 

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平和への希求。「吉坂隆正展 ひげから地球へ、パノラみる」@東京都現代美術館

 東京都現代美術館で開催中の「吉坂隆正展 ひげから地球へ、パノラみる」に行ってきた。

 

www.mot-art-museum.jp

 

吉坂正隆という建築家について、全くと言っていいくらい知識がないまま見に行ったのだけど、結果としては、遠路はるばる観に行った甲斐があった。

 

展示の内容は予想に反して、吉坂先生の建築作品自体というよりは、吉坂先生の思想にフォーカスした内容だった。

 

東京都現代美術館が意図したのかどうなのかはともかく、吉坂先生は「平和」に対する希求が強い建築家だったらしい。

そういう平和への願いが、思想や建築にも反映されているようだった。

吉坂先生は第二次世界大戦を経験している年代なので、平和というものが現代の我々以上に、切実な問題だったんだろう。

そして、ロシアのウクライナ侵攻を目の当たりにしている今だからこそ、観るべき展示だと思ったし、観る意義があると思った。

 

吉坂先生の考えとして、争いの原因は相互理解の不足(←正確に覚えていないので、間違っていたらすみません)、というところが一番印象的だった。

しかし、相互理解のためには、理解しようとする気持ちがないと始まらない。

現代は、その理解しようとするモチベーションが欠如してしまっているかもしれないなと、ふと思った。

結果だけを見て、「けしからん!」「こんなのはだめだ!」となって、すぐさま炎上!みたいなことになるのは、相手への理解の不足が原因かもしれない。

 

相手のことを理解するって、本当に難しい。

だからこそ、その努力を怠ってはいけないんだよなぁと、展示を見ながらしみじみ思った。

吉坂先生も、世界中を旅して、歩いて、いろんな文化や風土を身を以て体感しておられた。

そういう自分が知らないことを知ろうとする努力を生涯通して行っていて、私も少しは見習いたいと、切実に思った。(足元にも及ばないけれど)

隣国・韓国の民家研究を積極的に行っていたのも印象的。

今、政治的には韓国との関係が冷え切っているけれど、文化的には似通っている国であって、しかもこんなに近いところにある国と関係が悪いというのは、なんとも悲しい。

 

展示の内容から、吉坂先生の「人間の営みに対する深い愛情」みたいなものを感じられて、そして、その愛情は日本だけではなく、世界の人々にも等しく向けられているようだった。

 

展示を見ながら、始終、建築とは関係ないことばかり考えていた気がする。

 

展示では、吉坂先生の思想の一端しか知ることができなかったのだけど、それでも共感する部分が結構あって、吉坂先生の著書を読んでみたいと思った。

 

とても良い展示だったので、興味のある方はぜひ。

建築に興味がない人でも、楽しく鑑賞できると思いました。

www.mot-art-museum.jp

同時開催の「TCAA受賞記念展」、「光みつる庭展」もすごく良かったので、こちらもぜひ。

吉坂展のチケットがあれば、無料で見れました。

資本主義のその後って、どんな世界?

最近、いろんな本を読みながら、「資本主義の限界」ということを考えるようになった。

 

環境問題の本を読むようになってから、資本主義には限界があるのかも知れないと思い始めたのが、きっかけ。

環境問題の本以外にも、まちづくりの本だったり、アートの本だったり、エッセイだったり。

そういういろいろなジャンルの本に、今の日本社会の息苦しさがにじみ出ていて、その息苦しさの原因の一つが資本主義という制度にあるのかも知れないと思い始めた。

 

そして、こんなことを考えているのは、私だけじゃなくて、やっぱり頭のいい人たちがとっくの昔に考え始めていたことなんだったということを、この本で知りました。

 

 

 

この本のなかで、資本主義について、世界の哲学者がどのように考えているのかということをわかりやすく解説してくれているページがあって、とても示唆に富むものだった。

 

資本主義はやがてシェアリングエコノミーに取って代わられるのではないか、

イノベーションを起こすということが資本主義社会における企業の命題になっているが、そのイノベーションがやがては資本主義を破壊していくのではないか、

などなど、資本主義限界説を主張している哲学者がいるということをこの本を読んで初めて知りました。

 

本当にそうなるかはわからないけれど、一つ言えるのは、自分の実感からしても、これ以上資本主義を推し進めるのは限界があるのでは?ということ。

 

たとえば、買い物に行ったとき。

(資本主義のおかげで)お店にはいろんな商品が売られていて、見ていると「いいな〜、かわいいな〜、おいしそうだな〜、便利そうだな〜、ほしいな〜」と思う。

そして、それを買おうかどうするか、考える。

お財布にはお金が入っていて、買えないわけではない。

(もちろん、なかには私には買えないような高価なものもあるけれど)

ここで逡巡が始まる。

かわいいけれど、これ買ってどうするの??

(家にはもういっぱい物がある)

美味しそうだけど、食べ切れる??

(こんなに食べたら、太りそう・・・)

便利そうだけど、これ、一日に何回使うかな??

(すでに家にはいっぱい道具があふれてる)

 

などなど考え初めて、結局(買えるお金はあるけど)買えない、欲しいけど買わない、ということになる。

こういうことが日常生活のなかで、溢れすぎている気がする。

欲しいと思っているし、買えるお金もあるけど、別の事情で『買えない』。

だから、結局『我慢する』。

 

そもそも物が無かった時代や、経済が豊かじゃなくてお金がないために買えなかった時代と、現在とが、結局『我慢』しているという点では、一緒になってしまっているのではないか???

 

せっかく豊かになって、経済的にも安定してきたのに、結局『我慢』している。

 

これって、本当に豊かになった、っていえるのかな??

 

資本主義のメッカであるアメリカでも、若者たちが資本主義の限界を感じてきているらしい。

格差の拡大や環境破壊が、資本主義と無関係ではないことを悟っているからなんだと思う。

かといって、資本主義が絶対にだめなものって言うわけでもないのが難しいところ。

資本主義のおかげで、いろんな技術や素晴らしい商品が生まれたことは確かなので、完全に否定できるものではないと思う。

むしろ資本主義の恩恵を受けている私たちは感謝してもしきれない。

じゃあその資本主義のいいところ享受しつつ、だめなところをフォローする新しい制度を考えないといけないのが、現代という時代なのかなぁと思ったのでした。

それが、どんな制度・どんな世界になるのかは、わからないのだけど・・・。

でも資本主義を乗り越えて、もっと良い制度が生まれたらいいなぁ、と思った。

 

いま世界の哲学者が考えていること